"You fought for the free nations of the world.....You fought not only the enemy, you fought for prejudice, and you have won."
(諸君は自由主義諸国の為に敵と戦ったのみならず、偏見とも闘い、そして勝ったのだ)
1945年7月15日、降りしきる雨をも厭わずに政府高官、大群衆が見守る中、アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンはホワイトハウスの庭で、凱旋したアメリカ合衆国陸軍第442連隊戦闘団の兵士達を前に、上の内容の演説を行って栄誉を称え、第442連隊旗に自らの手で七番目の「大統領部隊感状」を括り付けたのである。合衆国陸軍の歴史上初めての異例のことであった。
<太平洋の楽園ハワイ>
日本人では、老人から子供まで、アメリカ合衆国第50番目の州であるハワイを知らない人はいないだろう。毎年世界中から6百万人もの人が観光や保養に訪れるこの太平洋の中心に位置する美しい群島は、まさに太平洋の楽園であると同時に米国の重要な戦略拠点であることを知る人は意外に少ない。最近では真珠湾攻撃の歴史的事実すら知らない若者もいるという。 オアフ島のホノルル空港に着陸するときに、滑走路の側にF-15戦闘機が駐機していることに気付いた人もいるだろう。 ホノルル国際空港は真珠湾攻撃の際に、帝国海軍航空隊の重要な攻撃目標となった米陸軍ヒッカム飛行場の地続きなのである。 現在もオアフ島だけで空軍、海軍、海兵隊の飛行場が4カ所もあるのだ(真珠湾攻撃時には、なんと合計8カ所もあった)。 この州の経済を賄う二大要素は観光収入と軍関係の収入であることが、何よりもその事実を語っている。
日本人がハワイを好きな理由の一つに、無意識ながら何故かハワイを心地よい場所と感じているはずだ。それはハワイが米国の中で唯一の、「白人社会ではない州」だからである。福沢諭吉の「脱亜入欧論」以来の白人社会崇拝、白人社会に対するコンプレックスは、現代日本といえども、いや寧ろ、「戦後民主主義教育」を受けて、日本固有の文化・価値観を否定されて育った日本人には、以前にも増して老若男女の潜在意識の襞の裏に、無意識のうちに刷り込まれているのではないだろうか。 どんなに慣れ親しんでも、米国の東部諸州や中西部、また開放的でアジア系の多い西海岸諸州に於いてすらも、ハワイのような心地よさは感じられないはずだ。ハワイ同様に多くの日系移民の子孫が生活するカリフォルニア州ですら、依然として白人社会=白人支配の世界であることに変わりはないのだ。
日本人に何故ハワイが心地よいか? ハワイ州の人口構成は大まかに見て、白人系(白人と言っても、アングロ・サクソン系、ゲルマン系、ラテン系、スラブ系などの総称で地元ではハオレという)が約25%で最も多く、次いで日系20%、華人系20%、チャモロ系(いわゆる先住民系、多くの部族系を総称)が20%といったところで、最近は韓国系も増えているやに聞いているが、何れにしても、これらの人種・民族は複雑に混血しているので、正確なところは学者の意見を聞くしかない。
意外なことに、ハワイにおいても白人は最大の比率であるのに白人支配を感じさせないのだ。米国で初の非白人知事となった日系二世ジョージ・R・アリヨシ以来、ハワイ州の知事は、チャモロ系のジョン・ワイヘイ、フィリピン系の現知事ベン・カヤタノと、非白人知事が選ばれている。州や市郡の議員も日系や華人系がマジョリティーであることが多い。さらに、州選出の上院議員はダニエル・イノウエ、スパーク・マツナガと日系ハワイアンである。総人口120万人そこそこの小さい群島の州とはいえ、これだけ日系人が政治経済の中枢を担っているのは、奇異に思えるほどであるが、だからといって日系人が他の人種・民族を支配しているいうことでもないのだ。
「人種の坩堝(Melting Pot)」という言葉がある。つまり多くの民族が坩堝の中で融和して一体化してしまうことを言うのであるが、ハワイの場合、「人種のサラダ・ボウル」と言われることが多い。つまり、一つの器の中に、サラダのようにいろんな物が融和するのではなく混在し、相互補完してサラダという一つの料理を構成するというわけだが、誠に適切な比喩だと思う。上で述べたように太平洋最大の米国の軍事拠点であるハワイ州が、なぜ斯くも日系人が中枢を占める社会になっているのか? その答えを探して辿ることは、日系移民の歴史を辿ることであり、更に、二世部隊兵士達の長く厳しい道のりを辿ることになるのである。
<砂糖きび畑の労働者たち>
始めにお断りしておきたいが、私は専門の研究者ではないから、それで生計を立てているわけでもないし、公的な名分もなく、公的な機関や一次資料へのアクセスは非常に限定されたものとなることは致し方なく、ここに述べる歴史的事実や考証の多くは、既に出版物等になっている二次的な資料に頼らざるを得なかったのが実状である。 よって、諸資料をもとに、自ら演繹した「持論」以外は、極力原典を記載した上で話を進めたいと思う。学術的な価値は自ら認めず、ただ、「二世部隊」を語るための予備的な知識の「まとめ」として、諸文献に限らず、小説、劇映画等をも引用しながら、読者に好奇心的な興味を喚起できればとの観点から話を進めて行きたいと考えるので、原典の著者におかれては、何卒ご容赦頂きたい。もし、不都合な表現等あれば、管理者までご一報頂ければ幸甚です。さて、日本人が初めてハワイに「移民」として上陸したのは意外に古く、明治維新の翌年というから1868年のことである。しかも明治政府からの出国認証ではなくて、徳川幕府と、ハワイ王国との間の協約に基づいて渡航したというから驚く。それ以前にも「移民」としてではなく、漂流民や密航者がハワイを訪れている。有名な土佐中浜の漁師万次郎(後のジョン万次郎こと幕府直参中浜万次郎)は鳥島に漂着後、米国の捕鯨船に救助され、そのまま米東部で高級船員教育を受け、幕末の日本に戻るまでの間に、航海の途中幾度もハワイを訪れている。
ハワイへの「移民」の事情は、菊地由紀著、「ハワイ日系二世の太平洋戦争」三一書房刊、の記述が詳しい。同書によると、この第一陣146名(「元年者」と呼ばれる)は、実質は移民に失敗している。ハワイ側が、既に日本の支配が明治政府に変わっているのに徳川時代の協約に基づき移民を急いだのは、19世紀に白人のハワイへの関わりが深まるにつれ、白人が持ち込んだ伝染病の蔓延や、ゴールド・ラッシュに沸くカリフォルニアへの人口流出などに因り、土着ハワイ人の人口が激減しており、白人がただ同然で先住民から手に入れた土地で経営する砂糖きび農園の労働者不足が深刻であった為であった。ところが、146名の移民者の殆どが武士、商工業者などの都市生活者であったため、過酷な農場労働に耐えられず、日本に助けを求める結果となった。その為、明治政府の費用で約1/3は帰国することとなり、海外に於ける日本人の扱いの低さを痛感した明治政府は以降明治18年まで、海外移民を認可しなかった。
明治政府による「移民」が再開されたのは明治18年(1885年)になってからのことである。翌年日本とハワイ王国との間に「日本ハワイ渡航条約」が交わされ、移民の保護を両国政府が保証することになり、当時の日本が不況の最中にあったこともあり一気に移民は増えた。このころの移民は山口県、広島県の農家の次男坊、三男坊が多く、三年の期限付きの、いわば「出稼ぎ」が実態であったが、期限が来ても帰国しない日本人も多かったようだ。
その後、明治26年(1893年)に明治政府は「移民保護規制」を定め、政府が法的に移民を保護することにより、政府の「移民」業務関与を民間に委ねた。政府が保護する以上、「移民」には農業労働者たるべき条件が課されていたが、明治33年(1900年)に政府はこれを廃止、晴れて(?)「移民」は自由化されたのである。
これにより「移民」は着実に増え続け、一時はハワイの人口の40%を占めるまでになるが、その間、ハワイは王国崩壊、共和国樹立、米国併合と国家の姿を変え、王国の末期からの白人支配者は増えすぎる「移民」の脅威と、経済基盤である農園経営の労働力確保のジレンマを抱えながら激動の20世紀へと舞台は移る。
20世紀の初頭には、ハワイの日本人移民は6万人を超え、1920年には10万人を超えた。しかもその頃ハワイ経由で米本土に渡る者も増え、安い賃金で本土の白人労働者の仕事を奪う事態も発生し始めた為、米国のヨーロッパ系白人はアジア人に対する人種偏見と相俟って、1907年にハワイとフィリピンから米本土への出稼ぎを禁じるべく「移民法」の改正を行い、日本人「移民」はハワイへの定着を始めることになる。手先の器用な日本人「移民」は農場労働で種銭(たねせん)を貯めると、商工業を始める者も多く、すでにハワイ社会では不可欠な存在となっていた。元々農園労働者としてハワイに来た独身男性は、写真見合い(工藤夕貴主演の米映画「Picture Bride」に当時の移民の生活が描かれています)などで日本から嫁取りを行い、一家を構えて二世の為の学校まで整備されるようになっていた。しかし、その後も本土へのアジア人の流入は続いたため、業を煮やした米国政府は1917年の「移民法」で日本人とフィリピン人以外の「移民」を排除し、1924年の「排日移民法」で1868年以来56年間に亘る日本人のハワイ「移民」は終わりを遂げることとなる。
余談であるが 、19世紀からハワイに流入した各国からの移民は、一様に白人資本の農場の労働者としてハワイに定住して行くのであるが、ある程度の蓄えが出来た後の、その「種銭」の使途に国民性というか民族性が顕著に現れ、各民族毎に自然とその後のハワイにおける「棲み分け」を構成して行く様は興味深いものがある。 その典型とも言える中国人と日本人の場合を見てみよう。
中国大陸からの移民は「種銭」が貯まると、中華料理店を始め、それに成功すれば増えた「種銭」を今度は不動産投資する。不動産事業で成功すると、最終的には金融業を始める。しかもその中国人社会は密接に連絡を保つファミリーを構成して外敵(国家も含む)からその社会を守るべく団結する。こうした華僑・華人一般のパターンはハワイにおいても見事に当てはまる。現在ハワイには大小多くの銀行が存在するが、華僑系の銀行は多い。またホノルルのダウンタウン近くには昔から立派なチャイナ・タウンも存在する。 革命前夜の若き日の孫文が一時期ホノルルの中華街に住んでいたことは有名な話である。
一方で、日本人はどうしたか? 日本人はもちろん生きて行く為に「種銭」で洗濯屋や食堂を開いたりしたのだが、最も特徴的なのは大多数の日本人が子弟の教育にも「種銭」を注ぎ込んだことであった。皆等しく貧しい農園労働者からスタートしながら、これだけは他民族に見られぬ日本人の特徴であった。それも、読み・書き・算盤どころか、親は赤貧の暮らしを続けながらも、この時代に高校、大学まで子弟を進学させた移民は日本人以外にはない。 結果として、現在のハワイ社会において、教師、医師、弁護士、官吏における日本人の比率は非常に高い。後述する二世部隊の存在も関係があるのだが、ここでは述べない。 この違いはどこから来るものなのか?
これは私の推論であるが、明治維新を経験した日本人は、素養と教育さえあれば出自には関係無く立身出世が出来ることを経験的に知っていたし、元々日本という国は江戸時代においてすら「寺子屋」などの初等教育制度が存在した文盲率の低い国であり、教育の重要性を末端の民衆に至るまで知っていた。 それに対して当時の中国大陸からの移民は清朝の時代に一世が移民をしていることから、「国」というものに根本的な信頼を持っていなかった。 ゆえに、「国」の制度が正常に機能している場合に初めて有効となる「教育」に投資するという視点は殆ど無かったと考えて良いのではないだろうか。 かれらは目に見える富を確保することが何物にも代え難い安全保障であることを群雄割拠の戦乱国家である中国の長い歴史から民族的に学んでいたのではないだろうか。 国家というものをナイーブに信じて努力邁進するこの時代の日本人の特質がここにも現れている。 但し、誤解を避ける為に、現在の三世、四世の時代には、こうした図式は既に当てはまらず、既に両者の特徴的な違いは存在しないことを申し添えたい。
<滅び行く王国と太平洋の要衝>
さて、駆け足での日系移民史だけでは、日系ハワイアンの歴史上の位置把握は十分ではない。半世紀以上に亘る移民の時代に、日本、ハワイ、米国が19世紀末から20世紀初頭に架けて辿った歴史を、比較的ミクロに投影してみよう。
ハワイの存在がが世界史・地誌に登場してくるのは18世紀中頃のスコットランド人、ジェームス・クック船長による発見(当時はサンドイッチ諸島といわれた)以降のことである。勿論それ以前にもハワイにたどり着いた人々は存在したことは多くの研究者に信じられている。例えば南米やフィリピンからのスペイン・ポルトガル人がそうだが、歴史上は些細な影響しか無いとして、クック船長に先立つこと1400年以上前にハワイに到達して先住民化したポリネシア人の場合以外は、重きを置かれていない。 因みに、現在のハワイ州旗は、近代史上の諸島発見者クック船長に敬意を表して、彼の母国である大英帝国旗ユニオン・ジャックを組み込んだデザインとなっている。
クック船長がハワイ諸島の現ハワイ島に着いた頃、ポリネシア出身の先住民は、いくつもの部族に分かれて、お定まりの血で血を洗う抗争を繰り広げていたらしい。 白人の船が到着したことがカルチャー・ショックと成ったかどうか定かではないが、それ以降白人と先住民の間の幾多の摩擦・紆余曲折(この辺は日本人移民にあまり関係がないので大胆に割愛)を経て、部族統一した国家への道を歩み始める。
ハワイを初めて一つの王国として統一したのは、ご存知カメハメハ大王(1世)(ホノルル観光で必ず訪れるイオラニ宮殿の庭にある雄々しい銅像のあの人です)で、ハワイ島北コハラ地区(今やマウナ・ケア、マウナ・ラニなどの有名高級リゾート地です)の部族長の子に生まれた彼はマウイ島、ハワイ島を平定し、1795年に、オアフ島ホノルルに首都を置く統一王朝の始祖となる。 その間、クック船長はハワイ島で先住民に殺されてしまい、他の欧州諸国からの介入もあるが王朝は1892年まで続く。この時期にはアメリカ合衆国を中心に、ハワイには多くの白人が流入するのだが、その先駆となったのはやはりキリスト教伝道のミッションであった。ジェームス・ミッチェナーの大作「ハワイ」やその同名の映画化作品にこの時代のハワイの白人の生活が描かれているので、興味ある方は一読、一見をお奨めする。
カメハメハ一世は王国建設後、比較的開放的に先進海外諸国の文化の導入を図り、王国の安泰を期するのだが、前述した様に、白人が持ち込んだ伝染病、性病にまるで免疫の無かった先住民の人口は1778年あたりをピークに急激に減少を始め、王朝が終焉する頃にはピークの5分の1程度まで減ってしまう。地球全体の許容範囲を超える人口の増加は人類の滅亡に繋がるが、特定民族の相対的な人口の減少は民族の滅亡に繋がるのだ。 まだ王国の首都がマウイ島のラハイナに在ったころから捕鯨船の補給地としてハワイに度々寄港していたアメリカ人は、早くからハワイの太平洋における戦略的な価値を認識していたので、多くの野心的な事業家や商人がハワイに渡り、王族に取り入り、官僚として政治に関与し、また、もともと「土地所有権」という概念に希薄な先住民を誑かして手に入れた農園などの広大な土地を支配するようになり、やがて国の経済全体を、ひいては国家そのものを支配していくようになる。
そんなハワイの近代史の中で、既に述べた1868年の第一次移民が不首尾に終わり、明治政府が移民を停止している最中の1881年、第7代ハワイ国王デビット・カラカウアが、世界周遊の際に日本を訪れている。この時、維新後初めて外国の元首の訪問を受けた明治政府は、横浜港に儀仗兵を配し、最高の敬意をもって大王を迎えたのである。日本側の歓待にいたく感激した大王は明治天皇に謁見して驚愕のプランを持ち出した。カラカウア大王の申し入れとは、当時まだ5歳の大王の姪であるカイウラニ王女と山階宮定麿親王との婚姻の申し入れであった。陽気な大王といわれたカラカウアは一面、非常に聡明な王であったので、減り続けるハワイ先住民の人口減少と、忍び寄る米国の支配を懸念して、同じ太平洋の島国であり、米国と反対側の隣国である日本と王室同士の絆を結ぶことにより、支援と庇護を求めたのである。結局この話は後日、日本側が前例が無いとして断ったのであるが、このカラカウアの外交的試みは見事と言うほか無い。一方で、まだ米国の属国にもなっていなかった時代の話であるから、後の日米開戦を考えると日本側の対応は残念なものであった。まだ日本国内でさえ皇室の婚姻は皇族・華族内で行われていた時代であるので、無理もない事で、歴史とはそうしたものなのである。
それでも明治政府が戦略的に全く無頓着な対応をしたかと言うと、そうではない。この時代の日本の政治家や軍人は、昭和のそれより遙かに外交に関して国際的感覚が豊かであった。カラカウア大王の親日度に影響されたかは定かではないが、大王来日の4年後の1885年には停止していたハワイ移民を、今度は明治政府の肝入りで再開するのである。しかしカラカウア大王は帰国後、米国に後押しされた勢力に革命を起こされ、立憲君主に祭り上げられてしまい、サンフランシスコ滞在中に不審死を遂げ、妹のリリウォカラニが第8代女王となる。有名なハワイアン・ソング「アロハ・オエ」の作曲者としても有名である女王は、一面、女傑であったと言われ、この時既に米国勢力を押さえ様もなかったにも拘わらず、王政復古を目指した白人排除の新憲法を強行発布したため、1893年、米国を後ろ盾とする党派はホノルル港に停泊中の米軍艦に支援を求め、軍艦ボストン号配乗の海兵隊160余名は待ち構えたように重武装をしてイオラニ宮殿を包囲した。こうしてカメハメハ王朝は抵抗する術もなく、あっけなく無血で終焉を迎えた。
因みに、カラカウア大王の姪カイウラニ王女は当時英国に留学中で、王朝崩壊後に米国政府に王国の復活を訴えて奔走するが、若くして病死する。絶世の美女・悲劇の王女と呼ばれた彼女は、手元の資料においても、実際、ハワイ人には珍しく、憂いを湛えた痩身の美女である。ハワイに行けば誰でも、ホノルル市カラカウア大通りに面するプリンセス・カイウラニ・ホテル(あの小佐野氏の国際興業所有)のロビーにて、彼女の肖像画に対面することが出来る。
この王朝転覆の報に、明治政府は新鋭巡洋艦「浪速」をハワイに派遣し、ホノルル沖を3ヶ月も遊弋して、米国の暴挙を威嚇し続けた。いわゆる砲艦外交である。
米軍艦配乗の海兵隊が革命を企てたとはいえ、それは前述したように実質的に王国を支配していた米国人の官僚、大農園主等の資産家の要請に基づき、米国民の財産と安全を守るという大義名分によるもので、決して当時の米国政府の方針に基づくものではなかったのである。それ故、米国軍隊とそれを後押しした革命派は日本の巡洋艦出現に怯えた。カラカウア大王が日本に同盟を求めて、婚姻の提案をしたことは既に広く知られていたからである。「浪速」は1886年英国アームストロング社建造の最新鋭艦で、後の日本海大海戦においても二級巡洋艦として活躍した艦である。当時のボストン号他の米砲艦ではとても太刀打ち出来ない本格巡洋艦であった。この時の「浪速」艦長はなんと、当時大佐で、後の帝政ロシア・バルチック艦隊との日本海大海戦における聯合艦隊司令長官、東郷平八郎であった。しかもカラカウア大王が姪のカイウラニ王女の婚姻相手として指名した山階宮定麿親王(後の伏見宮依仁親王)が海軍士官として同艦に乗組んでいることが知れると、革命側は更に大混乱に陥った。
しかし、残念というか、巡洋艦「浪速」はついに一度も砲火を開くことなく、ハワイを去る。日本海軍としてはあくまで威嚇のみで、米国の海軍と戦端を開く命令も無く、覚悟も無かった。もしこの時明治政府が断固としてハワイ王国を支援して加勢する覚悟を固め、米海軍と砲火を交えていたら、真珠湾攻撃より50年近く前に同じハワイで日米は戦端を開き、戦闘そのものは軍艦の火力の優越性から恐らく日本が勝利したと思われる。但し、ハワイを占領して統治が出来たかというと大いに疑問がある。
現実には、当時の日本は清国との戦争が不可避の状態で、財政的にも、到底太平洋で米国と事を構える状態には無かったのである。
このあたりの実話は、明治期の実に血沸き肉躍る冒険譚であるが、この事件を題材とした冒険小説、矢作俊彦・司城志朗著の「海から来たサムライ」(角川文庫)に、フィクションながら、生き生きと描写されているので一読をお奨めする。
<アメリカと日本>
ハワイ王朝を倒した革命派は、判事であったサンフォード・バラード・ドール(右写真、左端がドール、中央の小柄な女性は退位後のリリウォカラニ元女王)を首班とする臨時政府を樹立、1年後のハワイ共和国建国宣言とともにドールは初代ハワイ共和国大統領に就任する。 ところが5年後の1899年になって、ハワイの太平洋戦略上の重要性を再認識した米国政府がハワイを米国の領土であると宣言したため、共和国は短期間で終焉し、米国準州となった。 ドールは共和国大統領からそのままアメリカ合衆国マッキンレー大統領の任命による知事となったのである。 因みに準州(Teritory of the U.S.)というのは、丁度今のグアムのような存在で、住民には知事の選挙権は無い、ただの直轄地というものである。
ドールはハワイ史において、最初にして最後の大統領ということになるが、彼自身が王朝打倒派の急先鋒であったわけでも、アメリカ合衆国併合派であったわけではないので、王朝末期に宮廷に跋扈した併合派の白人官吏や、その裏で糸を引いた大地主農園主や産業資本家とは一線を画しておくべきであろう。 革命派の白人たちにとっては、元々米国の一部となることを望んでいたので、併合は当然の帰結であった。 因みにドールは現在も尚「ドールのフルーツ缶詰」で有名なハワイの五大地主のひとつであるキャッスル・アンド・クック社のドール家の親戚であり、ホノルル最古、且つホノルルのナンバー・ワン私立名門校であるプナホウ・スクールの創始者でもある。 読者は身近なところでハワイの歴史に触れているのだ。
こうして、米国は「太平洋のヘソ」を手に入れたのである。ここまで読んで頂いた読者の方は既にお気づきであろうが、規模の違いや戦略的あるいは地政学的価値の違いはあれ、米国のハワイ侵略と、満州を始めとする日本の大陸侵攻との違いは何処にあるのであろうか? 列強勢力と地方軍閥割拠により殆ど無政府状態だった満州と、正当な王国と穏健な民の存在したハワイと、同じ権謀術数と武力を以って我が物とするにしても、どちらがタチが悪いであろうか?
太平洋地域でフィリピンとハワイを手に入れ、最終的な利権の標的を中国本土に定めた海洋戦略国家アメリカは、その後、日米開戦に至るまで、目の上のたんこぶである軍国日本を少しづつ追い詰めていくのであるが、当時の冷徹な帝国主義の激突のはざまで、権力の推移と関係無く日系移民は着実にハワイ社会に根付いて行き、1924年の「排日移民法」の制定まで日本人の移民は続くのである。その間、正式な移民だけではなく、密入国者を含めて、1924年までに、日本人はハワイの隅々まで定着し、白人たちが生活する上でも必要不可欠な存在となっていたのである。
余談であるが、日露戦争に従軍し、復員した帝国陸軍兵士の中から多くがハワイ移民となって再び祖国を離れている事実がある。 当時は家の跡取たる長男は戦場に赴かなくてもよく、次男、三男の兵士が戦争から帰っても祖国は不況で仕事も無く、嫁も貰えず家督も継げないならと、戦場満州の大平原を見てしまった独身の帰還兵達は、積極的に「移民=海外雄飛」にその人生を賭けたのではないだろうか。
因みに1924年移民法(「排日移民法」)は、当時世界中から移民が殺到していた米国において、権力の中枢に多く存在したアングロ・サクソン至上主義者達の漠然たる将来への不安と、当時それを裏付けるかのように信じられていた「優生学」「遺伝学」の観点から、肉体的に貧弱であった東欧移民などに対する差別と、東洋人に対する抜きがたい蔑視が根底にあり、実はこの時点では米国政府当局の発想は初期のナチス・ドイツのアーリア至上主義と何ら変わるところは無いのである。有名な例で、大西洋無着陸横断の英雄チャールズ・リンドバーグの逸話がある。 故国米国において英雄視され続け、子供が身代金目当てに誘拐され殺される悲劇に、リンドバーグは予備役米陸軍航空隊大佐のまま英国に移住するのだが、その後起こったナチス・ドイツのポーランド電撃侵攻に始まる欧州の戦争に際し、米国参戦是非の世論に自説を表明する。「アジア、アフリカ、ロシアからの侵略から西欧文明を守る為なら参戦するべきだが、同じ西欧文明圏であるドイツとの戦争に米国は参加すべきではない」という彼のコメントは参戦主義の大統領ルーズベルトをカンカンに怒らせ、その後の彼の人生を大きく変えることになるのだが、当時のアメリカの著名人、支配階層の心情をよく表しているといえる。 後にリンドバーグは政府から裏切り者扱いをされ、実戦への参戦を認められなかったが、「有色人種」と戦うために自ら太平洋戦域に赴き、偽名で航空部隊に参加し、日本機の撃墜も記録している。波乱万丈の人生に疲れ果てたリンドバーグは、皮肉なことに、晩年を人種のサラダ・ボウルであるハワイ州のマウイ島で過ごし、同地でひっそりと一生を終えている。
米国政府は、更にこの時期の日本人に対しては、特別な警戒心を持っていたと思われる。その根底は人種偏見に基づくものであるが、もう一つ、米国政府を反日に向かわせた大きな要素がある。それは、第一次大戦後1919年の「パリ講和会議」である。
当時の日本は第一次大戦の戦勝国であり、西欧列強に肩を並べる程に国際舞台での発言力を得た唯一の非白人国家であった。パリ講和会議の日本全権代表は西園寺公望公爵、牧野伸顕男爵ら、日本の政治家の中でもトップクラスの人材を派遣し、この会議に際して米国のウィルソン大統領が唱えた「国家の平等・権利の平等論」に呼応して「人種平等の原則」の提案を行い列強の賛同を得ようとしていた。 ところが、日本の代表の発言要旨を聞き及んだ西欧列強は陰に陽に日本の全権代表の根回しを妨害し、本会議での発言すら妨害しようとした。驚いた牧野男爵は強引に発言を求め、「人種平等」の原則に関する演説を行ったが、英米のあからさまな無視に遭う。会議は混乱延会され、日本全権代表は列強に配慮した穏便な言いまわしの修正案を提出したが英米の反応は変わらない。 業を煮やした日本代表は強引に採決を求めた結果、11対5で賛成を勝ち得た。 にも拘わらず、議長のウィルソン米大統領はこの決議を「全会一致でない」という理由で採択しなかったのである。しかもこの後、ウィルソンは米議会で国際連盟加盟を否決され、あろうことか自ら提唱した国際連盟に加盟することの批准が出来ないという大失態を犯してしまうのである。
まさにこの時、日本は欧米列強の根底に宿る有色人種に対する軽視・蔑視の否応無い現実に直面し、米国もまた、日本は放置すると米国の利益を脅かす危険な国になるとの強い印象を持ったのである。この時に蒔かれた反目の種は「排日移民法」で具体化し、真珠湾による開戦で一気に究極の結末へと傾れ込むのである。
しかしながら、この時代のアメリカといえども、公然と「人種差別」を標榜することは出来ない。今も昔もアメリカは建前外交の国である。日系人に関しては、建前として、主にハワイ経由で米本土西海岸に移民した日本人が、安い賃金で白人低階層の仕事を奪っていく事への不安が表向きの理由になっており、このことはハワイの支配階層から見れば、既に必要不可欠な存在であったハワイ日系人社会への白人の依存度の高さにおいて、重大な矛盾を内包し、その事実が真珠湾攻撃以降のハワイと米本土の日系人社会および白人社会、夫々の対応に決定的な違いを生じさせる事になるのである。 (この章、終り)