§二世部隊物語 §

第五章 第442連隊フランスで戦う・・・ボージュ山地の地獄


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<第100大隊と第442連隊の再会>
<初陣!第442連隊>
<マルセイユからブリュエーラへ>
<ブリュエーラの解放>
<失われた大隊を救出せよ>  


<第100大隊と第442連隊の再会>

連合軍のイタリア戦線で常に厳しい戦いの尖兵を務め、ハワイ同郷の戦友の屍を乗り越えて戦場を駆け抜けて来たにもかかわらず、理不尽にもローマ入城一番乗りの名誉を剥奪された第5軍第34師団第133歩兵連隊第100大隊であったが、嬉しい出来事が待っていた。 米本土のキャンプ・シェルビーで訓練を続けていた全米の日系二世志願兵からなる米陸軍第442連隊が満を持して欧州戦線、それもイタリアに派遣されてきたのである。

前年1943年8月に兄貴分にあたる第100大隊が戦場に赴いた後も、キャンプ・シェルビーの第442連隊は相変わらず訓練に明け暮れていた。そして日系二世兵士達は訓練にうんざりして、新聞で伝えられる欧州戦線での第100大隊の健闘のニュースに接するたびに苛立ちを抑えられないでいた。 そんな第442連隊に出征命令が下ったのは4月になってからのことだ。翌5月1日になって米陸軍第442連隊はヴァージニア州のハンプトン・ローズ港(ノーフォークやポーツマスの対岸に所在)からリバティー型輸送船に乗船して祖国を離れたのである。ハワイアン・ボーイ達にとって、本土に向かう輸送船の上甲板で視界から消え去るまでアロハ・タワーを見つめていたあの日から、既に1年近くの時が過ぎていた。開戦時には既に兵役に就いていた兄貴分第100大隊の二世兵士と異なり、全員が開戦後の志願兵である第442連隊の兵士たちの士気は高かった。 船団の28日間に及ぶ大西洋横断の航海は、駆逐艦に護衛されていたとは言え、嵐にも見舞われ、決して楽な旅ではなかったが、例えどんなに辛くとも、キャンプ・シェルビーでの戦争ごっこに飽き飽きしていた兵士達の口からは、見事に不平不満が消えていた。

ここで改めて第442連隊の編成に就いて述べておこう。正式にはThe 442nd Regimental Combat Teamと言い、SF界の重鎮であり「442連隊戦闘団ー進め!日系二世部隊」の著者である矢野徹氏の翻訳を借りれば「アメリカ合衆国陸軍第442連隊戦闘団」と言うほうが正確な邦訳かもしれないが、ここでは便宜上引き続き第442連隊と称する。何故「歩兵連隊」ではなくて「連隊戦闘団」なのかというと、既に述べたように第100大隊が通常の軍編制上は親である「連隊」の下に編成されるべきところを、「親」が無いまま独立した「歩兵大隊」として編成された為、通常の大隊では持たない衛生中隊や補給(軍務・兵站)中隊を傘下に持っており、「親」連隊からの補給をあてにしない自給自足型の部隊である点と似ている。 第442連隊もまたハンプトン・ローズ港を出港した時点で、「親」であるべき「師団」が存在しなかったのである。その為、欧州派遣米陸軍第442連隊には主力の歩兵二個大隊に加え、傘下に同じく日系二世兵士で編成された野戦砲兵大隊と戦闘工兵中隊を擁しており、これが「第442連隊戦闘団」と呼ばれる所以である。 つまり、師団の編制を連隊規模に縮小したものと考えれば判りやすいかもしれない。 因みに第442連隊戦闘団に所属する第522野戦砲兵大隊は後に本隊と別れて他の師団に随伴してドイツ国内に進攻し、ダッハウのユダヤ人収容所を解放して有名になるのである。
本来は歩兵連隊である第442連隊の傘下には歩兵大隊は3個大隊あるが、欧州派遣に際して、第1大隊の大部分の下士官は第2、第3大隊に配転され、残る基幹要員は今後も志願年齢に達して全米から志願してくる日系二世新兵の訓練を担当する為、キャンプ・シェルビーに残留となっている。 但し、この第1大隊からは、連隊の欧州派遣に先立つ1944年3月から4月にかけて、既に将校31名、下士官兵524名がモンテ・カシーノ、アンツィオの戦闘で兵員消耗著しい第100大隊への補充として派遣されているので、見方に拠っては第442連隊の中では最も早く最前線に出た部隊でもあるのである。 その後のフランス・イタリアの戦闘で、第442連隊は凄まじい死傷者の山を築きながら戦い続けることになるので、この第1大隊の本国残留は日系補充兵を送り込み続けるという意味で、非常に重要な役割を果すこととなるのである。

こうして第442連隊主力が大西洋、地中海を経てイタリアのナポリ港に到着したのは1944年6月2日のことであった。28日にわたる航海で、ドイツのUボートの攻撃を回避するジグザグ運航や嵐の為に、当初は威勢の良かった日系二世兵士の殆どは酷い船酔い状態であったと云われ、文字通り這いつくばる状態で上陸したのが実情であったという。かつて世界一の美港と謳われたナポリ港内は沈没しかけた艦船が散在し、港から見える街並みは砲爆撃で醜く破壊されていた。 第442連隊のハワイ出身兵は、真珠湾以来初めての、そして本土出身兵は初めて戦争の姿にふれたのである。
ナポリで船酔いの疲れを癒す間もなく、第442連隊は輸送船に積み込まれた戦闘装備を開梱し、直ちに兵士達は完全戦闘装備となり、連合軍がノルマンディー上陸を敢行した6月6日には再び戦車揚陸艦や小型の上陸用舟艇に分乗してナポリを出港、翌6月7日に嘗ての激戦地アンツィオに再上陸した。アンツィオからは陸路トラックに分乗し、ローマを経由して第100大隊が駐屯していたローマの北西の港町チビタベッキアまで約130Kmを全部隊が移動し終えたのは6月11日の午後であった。

第442連隊が兄貴分の第100大隊にキャンプ・シェルビー以来の再会を果したその前日6月10日付けの軍指令により、第442連隊は即日第34師団(Red Bull)の傘下となり、また第100大隊は第442連隊から欠落した第1大隊の替わりに第442連隊に編入された。

第442連隊の第34師団編入に関しては実は逸話がある。 激戦に激戦を重ね、チビタベッキアに辿りついたころの第100大隊は当初の1500名という大隊規模が死傷者の続出で、既に半数以下の兵員しか擁せず、大隊の体を為していなかったのであるが、既に欧州戦線では知らぬ者のいない勇猛部隊としてその名は轟いていた。 あの「私生児大隊」と陰口をたたかれ、誰も引き受け手がいなかった小柄なアジア人の大隊を、今や米軍のどの連隊、師団も欲しがっていたのである。そうした中での同じ日系二世により編制された第442連隊の登場に、クラーク中将麾下第5軍の他の多くの師団長が第442連隊を欲しがったのは致し方ない。これに対して第34師団の猛将ライダー少将は猛然と反発し、「我々は北アフリカ以来、第100大隊と生死を共にしてきている。第100大隊が第442連隊に編入された以上、第442連隊は当然わが第34師団に帰属するべきである」と声高に主張した。 誰も引き取り手がいなかった第100大隊を北アフリカで、その戦意の高さを買って「里親」となった第34師団の実績の前に、ライダー少将の主張は当然としてクラーク中将に受け入れられたのであった。 
  本来ならば、編入された第100大隊は第442連隊の第1大隊となっても良いのであるが、第5軍司令官クラーク中将、第34師団長ライダー少将共に、サレルノ上陸以来、常に師団の尖兵として激しい戦闘の先陣切って転戦して来た第100大隊の栄誉を称え、またその労に報いる為に、特別にそのまま第100大隊を名乗ることを許したのである。 まことにアメリカ人らしい明朗で粋な計らいと言う他ない。

第100大隊が編入された時点での第442連隊の編成は以下の通りであった。
米陸軍第442連隊戦闘団The 442nd Regimental Combat Team
司令部中隊 Regimental Headquarters Co.
対戦車砲中隊 Anti-Tank Co.
砲兵中隊 Cannon Co.
医療衛生分遣隊 Medical Detachment
戦務(補給)中隊 Service Co.

第100歩兵大隊(第1歩兵大隊に相当) 100th Battalion
大隊本部中隊 Battalion Headquarters Co.
A中隊(ライフル歩兵中隊) Company A
B中隊(ライフル歩兵中隊) Company B
C中隊(ライフル歩兵中隊) Company C
D中隊(重火器歩兵中隊)  Company D

第2歩兵大隊 2nd Battalion
大隊本部中隊 Battalion Headquarters Co.
E中隊(ライフル歩兵中隊) Company E
F中隊(ライフル歩兵中隊) Company F
G中隊(ライフル歩兵中隊) Company G
H中隊(重火器歩兵中隊)  Company H

第3歩兵大隊 3rd Battalion
大隊本部中隊 Battalion Headquarters Co.
I中隊(ライフル歩兵中隊) Company I
K中隊(ライフル歩兵中隊) Company K
L中隊(ライフル歩兵中隊) Company L
M中隊(重火器歩兵中隊)  Company M

第522野戦砲兵大隊 522nd Field Artillerry Battlion
大隊本部中隊 Headquarters Battery
砲兵A中隊 A Battery
砲兵B中隊 B Battery
砲兵C中隊 C Battery
砲兵戦務中隊 Service Battery
医療衛生分遣隊 Medical Detachment

第232戦闘工兵中隊 232nd Combat Engineer Co.

第206陸軍軍楽隊 206th Army Ground Force Band
以上、当時の正確な総員数は手元資料で判明しないが、中隊定員200名から演繹すると、当初は連隊戦闘団全員で恐らく4500名〜5000名であろうと類推される。そして、こうした軍隊単位では、戦闘工兵は必要とあらば直ちに銃を取って予備のライフル歩兵となるし、また軍楽隊と雖も普段はM1ガーランド・ライフルを持って戦う、訓練を受けた立派な兵士なのである。親師団を持たず、第100大隊同様に自給自足型に編制された第442連隊の場合、尚更に兵士達の職分は何役をもこなす必然があった。

442rct.gif34div.gif消耗し切っていた第100大隊には誇らしく嬉しいこともあった。今まで「里親」師団である第34師団の黒いメキシコ瓶に赤い雄牛をあしらった"Red Bull"の師団章(右写真)を左袖上部に付けていたのであるが、新たに縦長六角形の中にトーチを持つ右手をあしらった第442連隊のパッチ(左図、連隊のモットーであるGo For Broke=当たって砕けろ!を表すと言われる)を右袖上部に付けることになったのである。もちろん、第133歩兵連隊から第442連隊に変わったが、師団は第34師団のままである。 実は第100大隊が北アフリカで第34師団に拾われて、サレルノに上陸しイタリア戦線の第5軍に参加した当時、配属された第34師団133歩兵連隊内でも日系兵であることが判るように、"Red Bull"とは別の特別なマークを付ける事を要求されている。おそらく味方の米軍兵士の日系兵士に対する微妙な感情に配慮してのことであったと思われるが、これに対して当時の第100大隊長のターナー大佐は、これを差別であるとして頑強に拒否している。 実際に第100大隊が第34師団の一員として堂々と"Red Bull"のパッチを付けることを許されたのは、カシーノ戦での壮烈な戦いの頃なのである。 第100大隊の兵士達にとって、第442連隊のパッチをつけることは、同じく日系人部隊であることを示すことではあっても、事情が異なる。 今度は精鋭部隊としての誇りをもって付けるのである。 今や米軍の従軍記者達も右袖にGO FOR BROKEのパッチを付けた小柄な日系人の連隊の動向に注目していた。彼等が行くところ必ずや戦局が動いたのである。

しかし、第100大隊と第442連隊の合流は当初必ずしも順風満帆であったわけではない。既に述べたように、第100大隊の兵士達が開戦前からのハワイ応召兵で編成されているのに比べ、第442連隊はハワイや本土の強制収容所の中からの志願兵である点が、兄貴分である第100大隊に対する必要以上の競争心や奇妙な優越感を生んでいたようである。 意識過剰と言えばそれまでであるが、1年近く訓練キャンプで訓練しながら第100大隊の活躍振りを耳にして苛立っていた第442連隊の将兵たちには、自分たちは志願兵だというプライドと、第100大隊の功績に早く追付きたいという焦りと気負いがあった。 死線を越えて来た第100大隊の方にはそうした気負った心理はない。 第442連隊が露営地に到着して間もなく、第100大隊幹部はこれまでの戦闘経験をもとに、初めて戦場に出た弟分の兵士達にセミナーを開催することを申し出ている。 ところが、白人の連隊長であるペンス大佐はこれを断ったのみならず、部下に第100大隊の兵士のアドバイスを聞いてはいけないとのお達しまで出している。 旺盛な自立心と云えば聞こえは良いが、アメリカ軍人のあからさまで強烈な対抗心や功名心は、とても合理的とは云い難い面が窺えて興味深い。尤も、このペンス大佐の意地は、後にあっけなく崩れ去ることになるのである。




<初陣!第442連隊>

ドイツ軍はローマ陥落後、戦線を北方へ大きく下げてピサからフィレンツェに至るアルノ川の沿っての防衛線、所謂「ゴシック・ライン」を敷いてここへ戦力の増強を図って、連合軍の進撃を阻止することを至上命題とした。東部戦線、イタリア戦線に加え、ローマ陥落と同時期にノルマンディーに上陸した連合軍の大軍に対峙する為の西部戦線と、三方を防衛することになったドイツ軍は、戦力の増強とは云え、数はともかく、質の低下は避けられない情況であったことは否めない。 この時期には、武装親衛隊と雖も兵員の多くを外人部隊に頼る事例が見られる。それでもドイツ軍がアンツィオ・ローマ以降も頑強に抵抗を続けられたのは、北部イタリアともなると徐々にドイツ本土に近づくことにより、正に背水の陣となり、必ずしも精兵ではなかった前線の兵士の士気はともかく、ベルリンからの督戦・死守命令は凄まじかったからであろうと推察される。

そんな戦況の下、第442連隊は第100大隊と合流したチビタベッキアから海岸沿いに更に100Km北方に移動し、グロッセート近郊グラバザーノで第36師団第517落下傘歩兵連隊、同第142歩兵連隊の交替として初めて実戦配置に就いた。 第442連隊は後に、この交替した第36師団(テキサス師団)の傘下に入り、フランスのヴォージュ山地で歴史的な死闘を行うのであり、また第100大隊にとっては米本土キャンプ・マッコイでは大乱闘事件を起こした相手という因縁の師団でなのであるが、当然この時点では双方共に何の感慨も無くすれ違っている。
前項で書いた通り、第442連隊長チャールズ・ペンス大佐は同じ日系二世部隊である傘下の歴戦の精鋭第100大隊に対する対抗心からか、自ら率いてイタリアにやって来た初戦の第2大隊と第3大隊を最前線に投入し、第1大隊にあたる第100大隊を後方待機予備兵力として配置した。 ところがその第2・第3大隊は1944年6月22日に二手に分かれて進出するなり両大隊とも敵の罠にはまり、88mm砲と戦車砲の激しい砲撃に遭って、多数の死傷者を出して進出地点に釘付けとなってしまったのである。 特に第3大隊F中退の被害は甚大で、中隊本部に直撃弾を受け、多くの幹部を失い、ポーランド移民の出であり、訓練キャンプでの元気な鬼教官として名を知られていた中隊長は生き延びはしたが、実戦闘のショックで茫然自失となり後方に運ばれる始末であった。初めて実弾の飛び交う最前線で、昨日まで陽気に軽口を叩き合っていたハワイアン・ボーイ達も、寡黙の中にも闘志を漲らせていたコトンク(本土出身二世部隊兵)の若者達も、あっけなく隣で死んで行く戦友達を目の当たりし、うなりを上げて飛翔する敵弾の下で現実の「死」に直面して凍りついていた。 ちくしょう、こんな筈ではなかった! こんな筈ではなかった・・・
第442連隊史によると、この第442連隊の初戦での大混乱に巻き込まれ、誤情報に翻弄されて自らも危うく九死に一生を得る破目に陥った猛将ライダ−師団長は、そんな戦況をつゆしらず後方待機していた第100大隊のシングルス大隊長に怒り狂って命令したという。"Singles! Clean up this fucking mess right away!"(シングルス!このクソったれの状況を早く何とかしろ!)

こうして第100大隊は早くも最前線に引っ張り出されることになったのであるが、6月26日正午過ぎ、絶大な信頼得るあまり、八つ当たりされてしまったシングルス大隊長は、直ちに釘付けとなった第2・第3大隊の間隙を巧みに迂回して、ドイツ軍が軽視して布陣しなかったベルベデーレの町の北東高地に進出した。進出した第100大隊から丸見えのドイツ軍砲兵と歩兵部隊への砲撃指示を受けた第522野砲兵大隊の狙い撃ち砲撃に呼応して、サカエ・タカハシ大尉率いる第100大隊B中隊はベルベデーレの町に突入、そしてミツ・フクダ大尉率いるA中隊はドイツ軍の退路に先回りして待ち構えた。B中隊に背後を突かれ瞬く間に多くの死傷者を出したドイツ軍は動転し、多くの兵器を遺棄して壊走し、これに呼応して釘付けとなっていた第2・第3大隊が一気に押し上げた為、敗走するドイツ軍は不幸にもA中隊が先行して布陣するミシェリーノ村に到達、A中隊の掃射に更に多数の死傷者を出して壊滅した。更に第100大隊C中隊が敗残兵の掃討に向かったが、実質上の戦闘はその日の夕刻までに終ってしまったのである。
なんと半日を待たずして、第100大隊が数日間膠着の事態を打開したとの報告を聞いたライダー師団長がしたり顔であったのは述べるまでもないが、対抗心のみで第100大隊を後方予備に回した張本人第442連隊長ペンス大佐もこの第100大隊の鍛えぬかれた、無駄の無い戦闘能力を率直に認める度量を示し、以後第100大隊を無視する言動は一切無くなり、むしろ厚い信頼を置いて第442連隊戦闘団の中枢部隊として重用するようになる。そもそもペンス大佐は支那事変の頃に中国に駐在し、日本軍の戦闘をつぶさに見聞きした経歴を買われて第442連隊の連隊長に命ぜられた人物である。アメリカ人独特の競争心や、見方によって偏狭な自尊心は強かったかもしれないが、もとより日本人の組織力・軍事能力には一目を置く、率直で優秀な指揮官であったとも言えよう。 第100大隊はこの時、大隊としてイタリア戦線の全部隊で初めての大統領感状(Presidencial Unit Citation)を授けられたのである。

7月になっても第442連隊はグロッセートから更に70Km以上も北上するドイツ軍を追撃し続け、チェチーナ川の北の中世イタリアの史跡が散在するトスカーナ地方で再び頑強なドイツ軍の抵抗線に対峙する。この時は第100大隊と第2大隊がドイツ軍の武装親衛隊第36連隊と激しい戦闘を展開したが、ドイツ軍は珍しく空軍も動員しての凄まじい砲爆撃で第100大隊と第2大隊に甚大な被害を与えている。先陣を切った第2大隊は特に被害が大きく、G中隊は将校のほぼ全員が死傷者という状態であった。ドイツ軍の砲撃観測哨があった140高地とロシニアーノ・マリッティモの町の攻防は、この時期イタリアでの最大の激戦であったが、140高地奪取の戦闘を通して第2・第3大隊の日系兵士達は、兄貴分の第100大隊に劣らぬ奮戦を見せ、第522野戦砲兵大隊の砲火と共にドイツ軍を押しまくり140高地を制圧すると、同じ第34師団の第135連隊が苦戦するロシニアーニ攻略に追及した。
7月18日にドイツ軍の防衛拠点であるピサから15Km南に位置する港町リヴォルノまで到達し包囲した第442連隊は、第5軍司令官クラーク中将から、この北イタリアで最も重要な港湾都市リヴォルノへ真っ先に入城する栄誉を与えられ、クラーク中将の前衛部隊として入城を果し、且つ第2・第3大隊が入城後に直ちにフィレンツェ方面の英第13軍の戦闘区域に回されたのに対し、第100大隊は急遽第5軍司令部直轄部隊として、この都市の治安維持・警備を命ぜられたのである。この事実はアメリカ本土の新聞でも大きく報道されたのであるが、1ヶ月半前、ローマ入城の栄誉を奪われ悔しい思いを飲み込んだ第100大隊の兵士達に向けた、クラーク中将のせめてもの労りであったのかもしれない。 第100大隊の兵士達にとっては、占領したばかりの地区の警備・防御とはいえ、参戦以来初めてといって良い「楽しい」任務であったに違いない。但し、単なる論功行賞ではなく、ナポリと同じくらい重要な港湾でもあり、第5軍の司令部が置かれたことからも、第5軍司令部が如何に第442連隊第100大隊に信を置いていたかを如実に証明する話である。 第100大隊は約一週間の任務を終え、7月下旬にはリヴォルノとフィレンツェを結ぶ国道67号線の警備についていた第442連隊に再び合流した。
 
KimClarkPatterson.jpgドウス昌代著「ブリエアの解放者たち」によると、事実、リヴォルノに至る迄の期間に、この地区の戦闘視察に訪れた連合国の要人に対して、第5軍司令官クラーク中将(左写真の左端が第100大隊キム大尉、その右後方の長身略帽がクラーク中将)も、第34師団ライダー少将も、最精鋭部隊として第442連隊第100大隊の名を挙げ、度々閲兵させている。 圧巻は、時の英国王ジョージ六世が当地に来訪した際に、クラーク中将はなんと最前線から戦闘中の第100大隊の一部を強引に呼び戻してまでして国王陛下の閲兵をうけさせているのだ。 また、二世部隊部隊創設に因縁浅からぬジョージ・マーシャル参謀総長(後の米国務長官)の伝記にも日系部隊を指して"Supurb"(飛び抜けて優秀)という表現で称えている箇所がある。この賛辞は前後の文脈から、第442連隊の中でも特に第100大隊のことであると云われている。

第100大隊がリヴォルノ警備の任に就いてから1ヶ月後の1944年8月15日、連合軍はノルマンディー上陸後の西部戦線のドイツ軍の防衛戦力分散を強いる為に南フランスに第7軍による上陸作戦を敢行した。「鉄床作戦」と呼ばれるこの作戦は、本来ノルマンディーと同時期に遂行される筈であったが、例によって、そもそもこの作戦の言出しッぺである英首相チャーチルが、ノルマンディーに固執した米軍への面当てか、今更・・・と渋るという連合軍の内紛を曝け出し、2ヶ月も遅れてしまった作戦であった。ここでもルーズベルトは老獪なチャーチルに翻弄されている。
イタリアで破竹の進撃をした第5軍司令官マーク・クラーク中将は、この「鉄床作戦」の総指揮官に抜擢される筈であったが、本人がアイゼンハワー連合軍総司令官に直訴して第5軍に残ることとなった経緯がある。 クラークはこの作戦に反対だったのである。 しかしその代償として第5軍隷下から三個師団を南フランスで「鉄床作戦」遂行中の第7軍に回すことに同意せざるをえなかったのであるが、これが後にクラーク中将の虎の子日系二世部隊に数奇な運命を強いることとなるのである。


 



<マルセイユからブリュエールへ>

1944年8月に入っても、第442連隊は短期間の休養を挟んで、相変わらずアルノ川沿いのゴシック・ラインでドイツ軍を激しく北に追い上げていた。 そんな頃、「鉄床作戦」で南フランスに上陸した米第7軍のデバース司令官から第442連隊を第7軍に配属することを希望するという要請が第5軍司令官クラーク中将のもとに届いた。 虎の子部隊をよこせ・・というとんでもない要請に仰天したクラーク中将は、大慌てでデバース中将に謝絶をするものの埒があかない。 第7軍としては、先にクラークが第5軍から三個師団を抽出して第7軍に割譲すると約束したことの実行として、師団単位に加えて特に第442連隊を名指しで指名してきたものであった。 クラーク中将としては、既にイタリア戦線の趨勢は判明したと判断し、自らが第5軍の司令官として残留する見返りとして、米・英連邦諸国・仏・伯などの連合軍ですでに総勢10師団以上に膨れ上がっていた第5軍から3個師団を抽出することは容易いこととタカを括っていたふしがある。 まさか虎の子第442連隊が指名されようとは想像だにしていなかったと思われる。 思い余ったクラーク中将は、なんと本国の統合参謀本部に本件の裁定を求めたのである。 菊地由紀著「ハワイ日系二世の太平洋戦争」によると、統合参謀本部の高級参謀達は、第5軍クラークと第7軍デバース双方の言い分を聴いて、「将軍達の要求を聞いていると、まるで米軍には第442連隊しかいないように聞こえる」と言って嘆いたという。これは実話である。

そして、統合参謀本部による裁定の結果、軍配は第7軍デバース司令官の方に上がる。 痛恨の裁定結果を受けたクラーク中将は、失意の中にも、この戦争が続く限り、機会を窺って必ずや"My Best Unit"第442連隊を取り戻すと心に誓ったといわれる。

ゴシック・ラインに沿って、中世ルネッサンス史跡の宝庫、メディチ家のフィレンツェ近くで戦闘を行っていた第442連隊主力が急遽呼び戻され、戦線を離脱して再びナポリ港に海路、陸路を経て移送されたのは1944年の9月も半ばであった。 既にナポリはフランスに進撃する第7軍の部隊でごった返していたが、第442連隊はそこで真新しい革のコンバット・ブーツとキャンバスのレギンスを支給され、乗船を待った。 第442連隊はイタリアに上陸以来、初期の戸惑いはあったものの、兄貴分第100大隊のプロの戦闘方法を学び、既に経験豊富で戦意旺盛な頼れる兵士達となっていたが、140高地の戦いを始め、幾多の激戦で兵員を消耗し、戦死者は239名を数え、戦傷者も1000名以上に達し、既に部隊の1/3を失っていたのである。 既にフランスに渡った部隊は内陸で敵の頑強な抵抗を受けているとの報も伝わり、フランスでも決して楽な戦いが待ってはいないことが予想され、第442連隊はナポリで本土からの補充兵役700名を迎え入れ、1944年9月27日に輸送船に乗船して陽光燦燦たる地中海にのりだした。

36div.gif空襲に怯えるすることもなく、のんびりとした三日間の地中海航海を経て、第442連隊は1944年9月30日に南フランスの港湾都市マルセイユに到着した。 マルセイユに入港・上陸した第442連隊は、直ちに15Km内陸の中継野営地に移動し、支給された新品の機関銃や迫撃砲、弾薬などの調整などをしながら前線への出発を待った。 そして更に内陸に出発するにあたり、第442連隊は第7軍の隷下部隊としてフランス内陸に先行していた米陸軍第36師団に配属された。 第36師団(通称テキサス師団)は第442連隊に先立ち、8月中旬には第5軍から第7軍に廻されてフランスに上陸をし、内陸に進攻してドイツ軍と激しい戦闘を繰り返していたが、先に述べたように第442連隊とは少なからぬ因縁を持つ師団である。 第100大隊は不思議とテキサスに縁がある。 第100大隊が日系人部隊として初めてハワイから米本土の訓練キャンプに送られた当時、最初に入営したウィスコンシン州のキャンプ・マッコイでは第34師団ではなかったが、同じテキサスの第2師団と隣り合わせ、ジャップと罵った多勢のテキサス兵を相手に無勢の日系二世兵が得意の日本武道を駆使して大男達大勢を病院送りにするという大乱闘を演じている。また、イタリア戦線ではモンテ・カッシノを目前とした急流ラピド川渡河作戦で、テキサス師団は第100大隊に隣り合わせた渡河地点でドイツ軍の猛攻に遭い、なんと二個連隊がほぼ全滅するという目に会い、さらに第100大隊を加えた第442連隊が初陣でグラバザーノで参戦した際には、テキサス師団下の連隊と交替して戦線に就いているのである。 これも何かの因縁かと第442連隊の兵士達は淡々と奇遇テキサス師団の"T"字の師団パッチ(右上写真)を左袖に縫い付けたのである。

第36師団を含む第7軍主力は、フランス上陸以来ローヌ側に沿って一気に約800Km北上し、第442連隊がマルセイユに到着した当時はロレーヌ地方ボージュ県のあたりで戦線を敷いていた。 フランスのアルザス・ロレーヌ地方は独仏の国境地帯で、過去その領有権を巡って、歴史的に幾多の戦役があった土地柄で、中学あるいは高校の世界史・世界地理の授業で教わった記憶をお持ちの読者も大勢いらっしゃるだろう。 大まかにライン川に並行するヴォージュ山脈東側のライン川に沿った低地をアルザス地方といい、ボージュ山脈西側の高地をロレーヌ地方と言う。 二世部隊はこの地方で歴史に残る壮絶な戦闘を行い、そして気の遠くなる犠牲を払うのであり、筆者は彼等の欧州の戦争のクライマックッスを書こうとしているのだが、生憎とこの戦地を訪れたことがない。ボージュ山脈における彼等の死闘を知るのに、先ずその場所がどんな場所であったのかを知っておくことが、彼等の戦争を正確に知る上で不可欠であろう。

筆者の友人でロレーヌ地方ボージュ県に隣接する、アルザス地方オーラン県の県都コルマール市在住の日本企業駐在員である志村氏は、筆者に宛てた手紙の中で、この地方のことを次のように紹介してくれている。氏のご了解のもと、手紙の一部を公開したい。

「ボージュ西麓はライン川に古都コブレンツで合流しているモーゼル川の水源地帯です。この川はドイツに入ると、両岸に聳える急斜面に貼りついたモーゼル・ワインの葡萄畑の間をコブレンツに向かって水運に使えるくらい悠々と流れていきます。 モーゼル川のさらに西には、戦史ファンにはその名を聞いただけで胸締め付けられる思いのミューズ川が流れています。この川はフランスの平原からアルデンヌの渓谷山岳地帯に入ると猛然と蛇行を始めるのですが、その理由は、大陸には珍しくないのだそうですが、山より川の方が先にあり、山が隆起しながら侵食された渓谷だからなのだそうです。 このためミューズ川は満々と水をたたえ、ゆっくりと絶壁の間を蛇行する、日本人の目から見るとたいへん不思議な川です。

ブリィエールはこの二つの川に水を供給するロレーヌ地方に属し、ボージュ主山脈を西に向かって下りきり、木の枝のように複雑に入り組んだ谷と水による長い間の侵食でできた丸い峰連続が始まる辺りにあるほんの小さな町です。 近くにはアールヌーボーの町ナンシーや、カットグラスで名高いバカラの町があります。ロレーヌはボージュ山脈の東側のアルザスと共にフランスとドイツの領有問題で揺れ続けたところで、日本ではアルザス・ロレーヌとくくられて紹介されますが、有史以来領有問題で揉め続けていて、独自の文化と言葉を持つアルザスから見ると、ボージュの向こうはみんな一律にフランスで、アルザス人はロレーヌとの連帯はあんまり感じていないようです。自由フランス放送のテーマ『ロレーヌ行進曲』にも鋭い反応は示しません。 ボージュは国境の山なのです。
地形的にもロレーヌ側は長い年月にわたる水の浸食でできた谷と丸い峰がどこまでも断続する山地、アルザス側は陥没によりできた谷をライン川がならした真平らな大平原、と対照的です。アルザスは白ワインの大産地ですが、ロレーヌではワインはできません。葡萄畑はボージュの東斜面に帯状にあり、幅500mから2Km、南北長さは100Km余りも続きます。コルマールはこのワインとアルザス平原の農産物の集散地として栄えた古い町です。

ボージュはアルプスが出来るより遥に古い時代にはドイツのシュバルツバルトと繋がる大山脈を形成していたと言われています。シュバルツバルトは西のライン川が切り立った斜面から突然真平らになる地形、東のドナウ川水源地帯は緩やかな起伏が何処までも続く地形になっています。 このライン川側の急な斜面、ドナウ川水源地帯の広がり方は東西が逆なだけでボージュそっくりで、昔、アルザスの位置に巨大な山脈あったがそれが陥没し、東西の麓であったボージュとシュバルツバルトの部分が残ったという話は、簡単に納得できます。 米軍はロレーヌの緩い起伏の部分をロウ・ボージュ、海抜1200mを超えるボージュ主山脈をハイ・ボージュと呼んだようです。ブリィエールから小さな峰を超え谷ひとつ超えればロウ・ボージュは終り、ハイ・ボージュの麓にとりつく事ができます。そして、その向こうは、もう町や村の名前(Colmarも当時はKolmarでした)も家並みもドイツ風のアルザスです。」

如何だろうか。筆者と共にまだ見ぬフランスの地形をイメージして頂ければ幸いである。戦史にも造詣の深い志村氏には、更に興味深い現地情報を伝えて頂いているのだが、それは物語の展開に沿ってご紹介したい。

さて、第442連隊が準備期間を終えてボージュの森の第36師団に追及したのは、マルセイユ入港から約2週間後の1944年10月12日のことであった。マルセイユ郊外の野営地からは部隊全員がトラックに分乗して進出する予定であったが、使用可能なトラックの不足などで、第3大隊だけが鉄道移送となったが、結果的には行程の途中で泥道でトラックが使えなくなったりで、野営をしながらの到着で、やむなく鉄道で出発した第3大隊が最も順調に到着したのであった。第442連隊が集結地シャルモア・ドヴァン・ブリュエールに到着した時点で、第36師団は第442連隊がマルセイユに到着した2週間前と殆ど同じ場所に布陣して動けずにいた。そして第36師団は消耗していた
第36師団の師団長はジョン・アーネスト・ダルキスト中将であったが、この師団長はデスクワークを長く務め、アイゼンハワーの参謀本部にいて中将まで出世した人物であった。そんな師団長の指揮下にあったテキサス師団は南フランスに上陸以来ドイツ国防軍の第198師団、第338師団、第11装甲師団などと戦い続け、ボージュ山脈に到達した時点で既に約8000名の兵士が死傷し戦線を離脱していたのである。第442連隊がテキサス師団に追及したのは、そのような状況の時であった。

デバース将軍の第7軍が南フランスに上陸後一気に北上して、ボージュ山脈のあたりに布陣した頃には、その北にはノルマンディーから進軍した、ご存知パットン将軍の第3軍が、第7軍の南には自由フランス軍第1軍がローヌ川に沿って布陣していた。 因みに当時ノルマンディーから進軍した連合軍は、主力の米第1軍、第9軍がパットンの第3軍の更に北のルクセンブルグ、ベルギーのアルデンヌ地方まで進出、まさにドイツ国境を窺う布陣となっており、更にその北に英第1軍、第2軍がベルギーの沿海部を進軍していたが、それぞれの軍が、今までのドイツ軍とは異なる、激しい抵抗を受け、連合軍は南北に連なって進撃を停止せざるを得ない状況に陥っていた。これはとりもなおさず、ドイツ国境地帯に迫った連合軍を阻止する為にドイツ軍は全てを賭けた戦いを展開しようとしていたのである。 南仏から一気に北上した第7軍がボージュで進撃が止まったのも、こうしたドイツ軍の戦闘姿勢が要因であった。ボージュを突破されれば、そこはもうドイツであったのだから。

shimuraPhoto-7-BunaTree.jpg第442連隊がボージュ山脈で戦列に就いたのは、そのような戦況下の1944年10月14日のことであった。ボージュ山脈はけっして険峻な山並みではない。 遠景は丸みを帯びた緩やかな美しい山並みである。 しかし、一歩その森に入れば高い針葉樹が密生し、日中でさえ陽光が届かないほどで、第442連隊が事前に第36師団から受けていたブリーフィングにおいても、森の中は昼なお暗く無数の小道が複雑に存在し、地元民さえ道に迷うとされていた。
第442連隊の進撃目標は集結地点から約4Km東にあるボージュ山脈の谷間にある小さな町ブリュエールであった。 ロレーヌ地方に属するブリュエールはフランス人の誰も知らぬ、地図にも載らぬ小さな田舎町に過ぎないが、この地方の交通の要衝であり、その為か過去の独仏間の戦役で幾度も戦場となった土地柄である。この時ドイツ軍は冬のアルデンヌでの大規模な反攻を計画しており(1965年米映画「バルジ大作戦」でお馴染み)、それまでブリュエールを含むボージュを死守することが必要であった。その為かこの小さな町には親衛隊の部隊が駐屯し、同じ年8月にはSS長官ヒムラーもこの地を訪れている。 我らが第442連隊は翌10月15日の朝8時にブリュエーラの町を目指して進撃を開始した。
(右写真は、現在のボージュのぶな林。志村氏の撮影・提供による)





<ブリュエーラの解放>

shimuraPhoto-1.jpg1944年10月15日、アメリカ陸軍第36歩兵師団第442連隊戦闘団は三方を山に囲まれた谷間の小さな町ブリュエーラ郊外にいた。 目的地ブリュエーラを陥とす為には戦術上、先ず周囲を取り巻く山を占領するする必要がある。実際そこにはドイツ軍の防衛陣地と砲撃監視哨がある。 36師団は攻略すべき四つの高地にA、B、C、D、のコードを付け目標地図参照、少々重いです)、0800に第442連隊第522野戦砲兵大隊による高地への砲撃開始を合図とし、第442連隊第100大隊と第179歩兵連隊がA高地を、第442連隊第2大隊がB高地を攻略すべく進撃を開始した。第442連隊第3大隊はブリュエーラ突入兵力として取り敢えず後方予備兵力として控えていた。 36師団ダルキスト少将の司令部からは敵の防衛戦力は僅かとの情報が伝えられていたが、百戦錬磨の第442連隊、それも第100大隊の兵士達は嫌な予感のようなものを感じ取っていた。特に第100大隊司令部のS3(司令部付作戦担当将校)であった歴戦のキム大尉は首筋になにやらピリピリするものを感じ取っていたに違いない。
(左上の写真は、フランス在住志村氏の撮影・提供による激戦地現在の姿。撮影地は555高地の中腹で、左の小高い山がA高地、右がB高地である)

当時からマーフィーの法則ではないが、悪い予感は必ず当たる。第100大隊B中隊はA高地に取り付くやいなや生い茂る下草により巧みにカモフラージュしたドイツ軍の銃座からMG42の凄まじい掃射を受けたのである。 キム大尉はこれも歴戦のB中隊長サカエ・タカハシ大尉と相談し、部隊の進撃に先立ち、とりあえず将校斥候を出すことにした。 キム大尉は自ら若いS2(司令部付情報担当将校)のブードレー中尉を伴いA高地の山麓を迂回して深い森の中に忍び込み状況の把握に努めたが、ほどなく、既に第442連隊の北方からA高地に取り付いていた同じ36師団の第179歩兵連隊の白人兵士に行き逢った。 その兵士達は下草の中に掘った塹壕の中で息をひそめていたのであるが、あたりは敵だらけで既に1週間もここから動けないでいるという。キム大尉達は直ちに第100大隊の前衛まで取って返し、無線で大隊長シングルス大佐を経て第442連隊長のペンス大佐に報告、ペンスは更に師団長のダルキストに報告したが、ダルキストは全く取り合おうとはしなかったという。 この辺りから既に第442連隊は師団長ダルキスト少将に疑念を抱き始めている。

やむなく第442連隊は進撃を開始するが、森の小道の行きつく至る所からの機銃掃射に晒され、這いつくばって進めば地雷が炸裂した。完全な待ち伏せ攻撃であった。加えてドイツ軍による砲撃で死傷者が続出した。それでも尖兵であったサカエ・タカハシ大尉のB中隊は機関銃座を一つ々潰しながら這うようにして前進を繰返したが、午前中に500メートル前進するのがやっとであった。 砲撃の被害大きかったのは後続のA中隊であった。 丁度休暇で帰国中のミツ・フクダ大尉の後釜中隊長であったサム・サカモト中尉のA中隊はドイツ軍の1発の榴弾で1名が即死、19名が負傷したのである。
なんとか山肌に食らい付いた第100大隊B中隊とC中隊は第179歩兵連隊とともに、A高地の尾根伝いに陣取るドイツ軍部隊との激しい戦闘に巻き込まれていった。

この時対峙していたドイツ軍は全体として装備は貧弱で兵員の質量とも連合軍に明かに劣っていたが、連合軍が厳しい反撃を受けて立ち往生したのは先にも述べたように、この地区の防衛部隊はアルデンヌ進攻作戦を控え、また、すぐ背後にドイツ本土を抱える背水の陣で、ベルリンから文字通り「死守」の厳命を受けていたからに他ならない。 米第7軍に対峙していたドイツ軍はパットン将軍の第3軍に対峙していたG軍集団の南を受け持つオーベルライン軍集団隷下の第19軍であったが、敗走に敗走を重ね装甲師団を北に引き抜かれ、国民擲弾兵師団を基幹としたまことに貧弱な戦力で、ボージュ、ロレーヌの防衛に際しても受け取った補充戦力は約5,000名に過ぎない。 さてここで、国民擲弾兵師団について触れておこう。 ドイツ軍のマイナーな部隊史に詳しい筆者のNetの友人まけらいおん氏によると、国民擲弾兵師団は次のような生立ちを持っている。

「1944年7月にドイツ陸軍は予備軍から約30個の新歩兵師団を調達した。これらは国民擲弾兵師団(Volksgranadir Division)と呼ばれ、ドイツ最後の人的資源を使って編制された歩兵師団である。兵力的には1万人を超える程度であり、1943年型歩兵(擲弾兵)師団と比べて劣っている。兵士の構成は、14歳〜50歳までの年齢であり、訓練期間も短く、また装備も100%充足にはほど遠い師団であった。 師団編制は主に3個国民擲弾兵連隊(2個大隊編制)、1個砲兵連隊、1個軽歩兵大隊、1個工兵大隊、1個戦車猟兵大隊、その他支援部隊で構成され、特徴はソ連軍の例に倣いSMG(短機関銃)装備の率が高くなったのと、野砲の不足を迫撃砲(81mm、120mm)で満たしているのと、対戦車火器の不足をパンツアーファアウスト等で代替している事があげられる。
しかし、支援装備(無線機、有線電話、砲兵鏡、トラック等)は不足しており、車両の不足を徴発した自転車、無線の不足を伝令を活用する有様であった。初期に編制されたいくつかの国民擲弾兵師団は東プロシアの危機を受けて東部戦線の北方軍集団に急遽送られ、激戦で消耗している。しかし、多くの500番台の師団は壊滅もしくは再編制中の歴戦の歩兵師団の残余や補充部隊と合流して、その歴戦の番号を引き継いだ国民擲弾兵師団として再編成された。 これらの師団は、各歩兵師団の歴戦の古参兵を抱えており、連合軍にとっても侮れない存在であったものもある。

国民擲弾兵師団とは要するに敗色濃厚なドイツが、残った兵器をかき集め、老人と子供にそれを持たせて窮余の軍隊を編制したと思われ、我が国でも終戦間際に各地で編制された3桁の番号の本土決戦用の連隊を連想させる。 ドイツに限らず、詳しい戦況を知らされずに教条的な国家貢献を教え込まれた少年達を戦争に駆出すのは、この時代どこの国でもあったことだが、その悲惨さを1959年ドイツ映画「橋(Die Bruke)」はよく表している。 但し、国民擲弾兵師団の場合、基本単位を満たさなくなった歴戦の部隊が編入されていることが注目に値する。事実、甘く見ていると、連合軍はこの国民擲弾兵師団にこっぴどい目に遭わされたのである。

さて二世部隊が属する第36歩兵師団の前面にはブリュエーラの北部に第16国民擲弾兵師団、同南部に第716国民擲弾兵師団が配置されていたようである。両師団ともG軍集団の一角として西部戦線で消耗に消耗を重ね、1944年9月の時点で夫々3,000〜4,000名程度の貧弱な戦力であったが、10月になって漸くG軍集団のヘルマン・バルク将軍の強い要請により約5,000名の「寄せ集め兵士」が補充されているが、その「寄せ集め兵士」は老人と子供だけではなく、第19SS警察連隊、オッテンバッシャー戦闘団、第201及び第202山岳猟兵大隊などの残余強兵が含まれていたのである。
1944年10月15日の第442連隊攻撃開始時点でブリュエーラ防衛の任に就いていたのは第16国民擲弾兵師団隷下の各部隊のようであったが、サカエ・タカハシ大尉の第100大隊B中隊がA高地の戦闘で対峙したのは第16師団第736国民擲弾兵連隊隷下第49要塞機関銃大隊であった。先に述べたように、ブリュエーラを囲む山々は決して高い山ではないが、平坦地から急峻に山肌がそびえ、高くそびえる松ノ木が密生し、下草も深く、小道を一歩森に入ると昼なお暗く敵の存在は殆ど視認できなかった。 ドイツ軍は巧みにカモフラージュした掩蔽壕に機関銃を据え、随所に狙撃兵や地雷を配し攻撃してくる。 地雷はイタリアでおなじみの飛翔地雷"Bouncing Betty"に加え、地雷探知機で探知できない非金属性質の地雷もあって工兵を困らせた。 加えてこの年の異常寒波がさしもの二世部隊兵士の士気を喪失させた。第100大隊は人工障害物の少ない小道を第232戦闘工兵中隊に地雷や障害物を除去して貰いながら少しずつ進撃する他なかったのであるが、第一日目は大きな戦果を上げることができず、深く掘った塹壕の中で、すぐに溜まる冷たい雨水に凍える夜を迎えるしかなかった。 戦闘の初日から降り続く雨と寒さに、戦闘服はポンチョを着ても濡れ、軍靴に沁み込んだ雨水で足は凍傷となり、さすがに南国ハワイ出身の兵士が多い第442連隊には堪えた。

翌16日も朝からドイツ軍の攻撃は激しかった。装備貧弱なはずのドイツ軍88mm砲の砲撃は鬱蒼と樹木の茂る森の中で樹木に当たった砲弾が破裂すると、無数の鋼片とともに鋭く切り裂かれた木片が降り注ぎ、下の米軍兵士達の体を引き裂いた。この"Tree Burst"は多くの二世兵士を死傷させ、上方を強固に掩蔽しない限り、塹壕というものを無意味にしたほどの威力であった。 ドイツ軍側がそこまでの効果を意識して砲撃したかどうかは不明であるが、当然米軍側の砲撃でドイツ兵も同じ被害に遭っているが、米軍を待ち伏せる為に巧みな掩蔽壕を多く築いていたため、米軍ほどの被害は出してはいないと思われる。 第442連隊の帰還兵士にはドイツ軍が使用した6連装ロケット弾(米兵は"Screeming Meemies"と呼んだ)の不快な飛翔音と共に、今もTree Burstの恐怖を忘れられない生存兵は多いという。
A高地を目指す第100大隊もB高地を目指す第2大隊も激しい戦闘で一進一退を繰返しながら、思うように進撃できずにいたが、第100大隊司令部のキム大尉は戦車を山に入れないことには事態は打開できないと判断し、戦車大隊と戦闘工兵の協力を得て、急勾配の山道に戦車を入れる算段をしていた。ドウス昌代著「ブリエアの解放者たち」の記述によると、その時に有名なエピソードが起こる。キムに本部の通信兵から有線電話が入り、キムと話したい人物がいるという。 替わった電話の相手は師団長ダルキスト少将その人であった。 キム大尉は何も喋らず突然電話線を引きぬいて傍らのシングルス大隊長に言った。「電話線は砲撃で不通になりました」。 キムはそれまでのダルキスト師団長の言動から、この人物が野戦に疎い指揮官で、前線部隊にとっては有害な人物であると敏感に感じ取っていた。それはおそらくシングルス大隊長も同様であっただろう。キム大尉は優秀な野戦作戦将校であると同時にイタリア戦線で特別戦功十字章(DSC)を授与された戦闘指揮官でもある「実行の人」であった。 今、この師団長と話すと、現場の戦況を理解しない理不尽な進撃命令が来るのが判りきっていたキムは、時間を稼ぐ為と部下の命を守る為に、瞬時に判断して「実行」したのであった。

ダルキスト少将は野戦に疎いにも拘わらず、陣頭指揮することが好きであった。自ら遮二無二兵士の尻を叩いて進撃させるのである。彼は焦っていたと云われる。なにしろアイゼンハワーの連合軍総司令部でアイクの側近としてデスク・ワークの長かった彼は、何が何でも「大将」に成りたかったのだと云われる。その為には実戦で功名を挙げないと駄目だとダルキストは考えた。しかも戦争はもう連合軍の勝利が目の前に来ている。彼が戦功を上げ得るチャンスはこの戦闘でしか有り得ないと考えていたのである。 自ら属する第7軍どころか、隣に布陣するパットンの第3軍の並み居る将官達を出し抜いてドイツ本土に一番乗をしなければならなかった。 そこへ勇猛で鳴らした第442連隊が配属されるという幸運に恵まれた。彼等を最大限有効に戦力として使おう・・・。ダルキストがそう思ったとしても不思議はなかった。
ダルキストが第100大隊司令部S3キム大尉に電話掛けた時、彼は前線近くにいた。キムと連絡が取れなかった彼は副官を従えて前線を動き回り勇猛な指揮官を演じていたが、偶々踏み込んだ森の中に布陣して待機していた第100大隊C中隊のマサナオ・オオタケ少尉指揮の小隊に遭遇し、直ちに前進突撃することを命じたのである。 あたかもロシア赤軍の督戦部隊の如きダルキスト師団長の監視の下、オオタケ小隊はC中隊本部に連絡することも許されぬままドイツ軍機関銃陣地に身を晒して突撃を行わざるを得なかった。 突撃命令など出していないC中隊の方角から激しい銃撃音と突撃の雄叫びを聞いた第100大隊司令部の将校達は愕然とした。 アンツィオの戦闘で将校に昇進した優秀な野戦指揮官として将来を嘱望されていたマサナオ・オオタケ少尉の戦死を聞いてシングルス大隊長とブードレー中尉は怒りを抑えられないでいた。また、キム大尉が"Was that suicide or murder?"と吐き捨てるように呟いたのを聞いた兵士もいる。 今や二世部隊兵士の敵は全面のドイツ軍や凍える雨と寒さだけではなかった。

一方、第442連隊第2大隊が攻めるB高地も状況は同じようなものであった。 B高地に至る迄の555高地の奪取はしたものの、B高地に続く谷間でドイツ軍の激しい攻撃を受け、多くの死傷者を出して動けなくなる部隊が続出した。 ドイツ軍は高地の頂上付近だけでなく、ブリュエーラに通じる谷間に面した山麓の石造りの民家を要塞化して機関銃を据え付け、第442連隊の兵士を激しく銃撃したのだ。 無謀な進撃を命ぜられ戦死した前述第100大隊C中隊マサナオ・オオタケ少尉の弟マサユキ・オオタケも第2大隊H中隊の軍曹としてB高地攻略戦に参加していたが、まだ兄の死は知らされていない。
A高地を攻める第100大隊も同様に、民家を要塞化したドイツ軍の機関銃座にてこずっていた。イタリア戦線以来の歴戦の戦闘員であるA中隊のケネス・カネコ少尉とヨウゾウ・ヤマモト曹長が重傷を負って後送されたのも、この山麓の民家を一つ、また一つと潰して行った戦闘でのことだった。この日の夕方にブリュエーラ一帯に発生した霧の中で、第442連隊は死闘を続けたが、野戦や迫撃砲、自走砲や戦車の応援を得たドイツ軍擲弾兵の守備するA高地、B高地共に奪取することが出来ず、凍える闇夜の塹壕の底で朝を待つしかなかった。

ブリュエーラの町では10月に入ってから連合軍による解放間近との観測が流れ、駐屯するドイツ軍部隊も慌しい動きを見せていた為、地元のブリュエーラの住民達はドイツ軍に面従しながらも密かに期待を膨らませていたのであるが、何時になっても連合軍が攻め入って来る気配は無い。逆にドイツ軍の親衛隊や防御部隊が増強さえされている様子である。 それが10月15日から連合軍の砲撃が始まり、周辺の高地のみならずブリュエーラの町にも砲弾が飛来するようになった。住民達は砲撃に脅えながらも各家の地下室に篭り、ひたすらに解放される日を待ち望んでいた。

第442連隊がブリュエーラ攻略に加わって三日目の翌10月17日になっても事態は好転しなかった。 夜明け早々からドイツ軍はA高地とB高地から降りてきて野戦砲と戦車の援護を得ながら、山麓の第442連隊に襲いかかった。第442連隊も負けじと応戦するが、深い森の中で対戦車砲中隊は思うように応戦できない。 そこで歩兵にバズーカ砲を持たせて随所で応戦する作戦が功を奏し、なんとかドイツ軍をA・B高地に追い返すことが出来た。その間に一番の激戦地に投入された第100大隊は歴戦の兵士が次々と負傷や凍傷で後送され、戦力は著しく低下していたが、大隊本部のS3キム大尉やB中隊長サカエ・タカハシ大尉のようなベテラン指揮官の的確な判断と、味方の被害を最小限に抑える巧みな戦術で持ちこたえていた。 一進一退する間に第442連隊は敵の捕虜から的確な情報も得ていた。捕虜は第736国民擲弾兵連隊の兵士に混じって、第49要塞機関銃大隊の兵士がいることも判明し、ドイツ軍がブリュエーラ地区の防衛を連合軍の予測以上に重視していることが窺えたのである。 しかし、ドイツ軍兵士達の多くは中高年か少年で、明かに疲弊していた。 同じ激戦でもイタリアのモンテ・カシノにいた精鋭降下猟兵連隊の兵士達とは明らかに違っていた。後退すれば粛清されるかもしれない恐怖だけが末端のドイツ軍を悲惨な防御戦に駆り立てていた。

第442連隊の参戦から既に4日目である10月18日の朝が明けた。すでに第36師団長ダルキスト少将の苛々は頂点に達していたが、第442連隊はそれまでの4日間に亘る冷たい雨と霧の中の戦いで満身創痍であった。 最前線の激戦を第100大隊と第2大隊にまかせて後方に待機して満を持していた第442連隊第3大隊は、夜明け前の霧雨の中でB高地攻略の布陣を敷く第2大隊の右側を密かにブリュエーラ市街に向けて進出していた。 午前10:00にA・B高地とブリュエーラの町に対して一斉に砲撃が開始され、それに呼応した第36師団の兵士達は戦線に就いた。 特にブリュエーラの南から約4Km南東に待機していた第36師団第143連隊は、第442連隊に対する防御戦で手薄になったブリュエーラの真南にあたるシャンプルドク(Champ-le-Duc、読み方に自信無し)まで一気に進出し、ブリュエーラ防衛のドイツ軍を挟撃する体勢を取った。

一方で、凄まじい物量の砲弾を撃ち込んでも反撃が止まなかったA高地へは第100大隊が、B高地へは第2大隊が血みどろの攻撃を掛けた。 工夫して引き揚げた戦車の砲撃もあり、キム大尉やタカハシ大尉の第100大隊は70名余の捕虜を捕らえながら山頂を攻撃し続け、1447時に激しい雨の中、ついにA高地山頂を占領した。 B高地はさらに攻略に手間取った。正午ごろにまだB高地の山麓でドイツ軍の機関銃陣地攻略が難航していた第2大隊F中隊・G中隊の右側(南側)を密かにブリュエーラの町に突進した第3大隊のI中隊が第2大隊を支援するためB高地の南側斜面に取りついてドイツ軍の防御兵力を分散させた。これでドイツ軍の防御線は維持し切れなくなり、A高地から約1時間半遅れた1624時にB高地は陥落した。 B高地が漸く第2大隊によって占領されたころ、密かにブリュエーラ市街まで到達していた第442連隊第3大隊のL中隊は、町の北側からブリュエーラに突入したのである。 更にブリュエーラ南部のシャンプルドクから北上した第143連隊もブリュエーラの町に南から突入した。 ブリュエーラの町中はドイツ軍により防御用の大型コンクリート障害物が多数配置されており、街の広場に立て篭もったドイツ軍は更に数時間の抵抗を続けたが、最終的には降伏したのである。第442連隊第232戦闘工兵中隊の兵士により、障害物はその夜のうちに全て爆破された。

ブリュエーラ市民の様子を見てみよう。 数日来の連合軍による激しい砲撃に、市民は地下室に避難し息を潜めていたが、10月17日あたりからドイツ軍の動きが急になったことをカーテンの隙間から窺っていた。 10月18日の午後遅く薄暗くなる頃、街に隣接する森林から一人の小柄な米軍兵士が出てきた。 辺りを窺いながら素早い身のこなしで畑を横切ってある民家に向かって走って来る兵士は農村地帯のフランス人が想像するアメリカ兵と明らかに違っていた。続いて次々に出てきた兵士達は皆小柄で浅黒くアメリカ人には見えなかったが確かに米軍の軍服を着ていて流暢な英語をしゃべった。 家から家へ一件づつ家屋内のチェックを行いながら兵士の数はどんどん増えてくる。 人々は兵士達を案内して来たガイドであるレジスタンスの男から、彼等がアメリカ生まれの日本人移民の子供達だと聞かされる。 兵士達はみな人懐っこくて優しかった。フランス人の子供達を見つけると携帯口糧からチョコレートやチューインガムを呉れた。また渡米一世を中心とした米国の日本人社会で、古き良き日本の習慣を身につけた青年たちはフランスの老人や年配者を優しく労って呉れたことが長い間ドイツ軍に抑圧されてきたブリュエーラの人達の辛い記憶の中にオアシスのように残っているという。

  OutlookBruyeres.jpg第442連隊が到着してから始まったブリュエーラをめぐる戦いが終ったわけではなく、東に撤収したドイツ軍はまだ戦力を有していたが、北と南からブリュエーラに入ってきた米軍兵士は町を制圧し、ともかくブリュエーラ市民を実に4年ぶりに解放したのである。 第100大隊はA高地の山頂警備にA中隊を残して、その日のうちにブリュエーラの町に入って残った建物で野営している。同じく第3大隊もブリュエーラで野営をして翌朝を迎えた。 街から戦闘が無くなったのは、10月19日に第442連隊第3大隊が町の東側のD高地に残ったドイツ軍を掃討した後の10月20日になってからのことであった(右写真はD高地からブリュエーラの町を望む日系兵士)。 市街戦でのドイツ軍捕虜や脱走者は130名を越え、同数以上の戦死体が確認されているが、ドイツ人のものは少なかったようである。 ドウス昌代著「ブリエアの解放者たち」の記載によると、第198フュージリア大隊、第736装甲擲弾兵連隊などのポーランド人、ユーゴスラビア人、アフリカ占領地出身の黒人兵などであったという。戦意の高くない外国人を最前線の楯として徴用していた末期ドイツ軍の実態が窺えるが、これは国民擲弾兵師団に限ったことではない。武装親衛隊にも外人部隊は存在したし、D-Day後のノルマンディーでもロシア人やポーランド人のドイツ軍兵士が多数戦死したり捕虜となっているのは周知の事実である。 また、ドウス昌代氏の記述によると、ドイツ軍が撤退した後のブリュエーラでもドイツへの協力者と看做されたヴィシー政権の管理官やドイツ軍相手の売春婦などが、解放された他の欧州の都市で起こったと同様に住民に拘束され、憎悪・復讐の対象として石を投げられ、髪を切られたり唾棄されたりの行為を受けている。

shimuraPhoto-4-442St.jpgこの戦闘で両軍の砲撃により町の建物の約30%を破壊され、住民に500人以上の死傷者を出したブリュエーラの人達は戦後になって、自分達を解放してくれたアメリカ軍部隊である第442連隊の日系二世兵士の多くが、強制収容所に入れられた家族を本国に残して参戦していたことを知り、驚愕し感動する。 真っ先にブリュエーラの町に突入した第3大隊L中隊の退役兵士であるハワード・ハナムラの娘ウェンディー・ハナムラが米国のフラワー・ビレッジ・フィルムズで1995年に制作したドキュメンタリー番組(「祖国と名誉のために・・・442部隊の欧州戦線」という邦題でNHKが放映した)で、町の人は語る「あの頃彼等の家族は自由を奪われていたんでしょう。その彼等が私達を自由にしてくれたことを忘れはしません」。 また、元レジスタンスの闘士で第3大隊が市街に突入する際に先導役を務めたフランス人ポール・シャルパンは語る「町を解放してくれた日系アメリカ兵には永遠にに感謝しています。あの頃ははまだ正式なアメリカ人ではなかったのかもしれませんが、彼等は皆勇敢で立派な兵士でした。彼等のお陰で我々は再び自由を手に入れることが出来たのです」。

 ブリュエーラの町の西側にある第2大隊が攻め下った555高地の麓から、A高地およびB高地に囲まれた盆地を経て市の中心部に向かう通りがある。ブリュエーラの人達は解放者を称え、日系二世部隊への感謝を込めて、この通りを「第442連隊通り」と改名し(左写真は、現在も存在する通り名の標識、志村氏撮影・提供によるもの。「第442連隊、ブリュエーラの解放者、1944年10月」と書かれてある)、現在も解放記念日にはアメリカから第442連隊の退役軍人が招待を受ける。 特に終戦から50周年の1995年にはアメリカから350名の元第442連隊兵士達がこの町に招待され、盛大な記念式典が催され、年老いた日系アメリカ人の元兵士達が勲章を付け、略帽を被り「第442連隊通り」からメインストリートへと歩いてパレードしたのである。 





<失われた大隊を救出せよ>

第442連隊の兵士達は、解放されたブリュエーラ市民に強烈な印象を残し歓迎されたが、息をつく間もなく再び戦場に駆出されて行く。ブリュエーラの町を解放した10月18日の夜には、A高地を確保したままの第100大隊A中隊を除く第442連隊の兵士達は久しぶりに屋根のある建物の中で濡れた靴下を乾いたものに取り替え、ふやけて疲れきった足を労り、つかの間の睡眠をむさぼって疲れきった体を癒すことができたが、明けて10月19日の朝から早くも次ぎの戦闘に駆出されている。 

町のすぐ東のD高地の掃討をしつつ更に東に通づる鉄道線路と道路の確保に進出した低地で第2、第3大隊はすぐ近くにまだ残留していたドイツ兵と激しい戦闘を行い、不運にも地雷原に迷い込んでしまい、戦車の救援を得て漸く脱出する場面もあった。 D高地の攻略には意外な時間を要した第2大隊であったが、その時負傷者の救出作業を行っていた(赤十字マークを付けた)衛生兵がドイツ兵に狙撃されたのを目の当たりにした第2大隊の兵士達は一斉に立ち上がり白兵突撃をかけて50名以上のドイツ兵を殺してD高地を制圧したのである。 どんな場合にも仲間を見捨てない二世部隊兵士の戦意と、追い詰められて衛生兵まで狙撃したドイツ兵に対する怒りの結果であったが、こうした事例に数多く遭遇した二世部隊兵士は、逆にドイツの衛生兵と雖も容赦はしなかったという説もある。 こうした戦争中のウィーン条約違反を現代の道徳観で責めることは簡単だが、戦争はスポーツ競技ではない。国家の大義を背負わされ、追いつめられた人間同士の殺し合いである。 仲間を殺され自分も殺されるかもしれない状況で、激情にかられて衛生兵を狙撃したり、捕虜を殺したりの事件は両陣営相互に頻発している。殺らねば自分が殺られる極限の闘争だからこそ戦争は狂気であり悲劇なのだ。 この戦闘の悲劇を更に語るなら、衛生兵を狙ったドイツ軍の側の兵士が殆ど16、17歳の少年兵であったことであろう。 彼等は二世部隊の白兵突撃の結果、たった7名しか捕虜となって生き延びることができなかったのである。 戦闘後にそのことを知った第2大隊の兵士達が、やりきれない暗澹たる気持ちになったであろうことは想像に難くない。 スコット・ヒックス監督によるデヴィッド・グターソンのベストセラーの1999年映画化作品「ヒマラヤ杉に降る雪(Snow Falling on Cedars)」の中で工藤夕貴演ずるヒロインの夫が、欧州でドイツの少年兵を殺したトラウマを持つ二世部隊の復員将校として登場する。

一方でブリュエーラの北東に位置するC高地のドイツ軍は撤退の様子を見せないため、ダルキスト師団長はA高地から町に降りて来た第100大隊に明10月20日正午までにC高地を奪取し敵を掃討することを命じる。 第100大隊の大隊長シングルス中佐とG3(作戦担当参謀)キム大尉は大急ぎでA高地山頂にいたA中隊も復帰させ、なんとか未明までに三個中隊全てを揃えると、横一列にC高地攻略に投入し、一気に山頂まで駆け上ったが、この進出が速過ぎて第100大隊の突撃ラインの間隙に敵の小部隊が後方に残され、第100大隊は前後に敵と対峙する破目に陥り、かえって大混戦になるという事態まで引き起こしている。 

この出来事は偶然に起こったと思われがちであるが、尖兵部隊が敵の前線を突破して遮二無二突進すると、後続や両翼の部隊が追随できなくて、尖兵部隊が敵中に孤立するというパターンは近代・現代戦史においても往々にして発生している。 余談だが、欧州大戦初期のドイツ軍の西方電撃戦で名将グデーリアン率いる装甲師団はフランス軍を蹴散らし一気にパリまで攻め上がらんばかりに突出した為に、補給部隊が追いつけず、ドイツ軍戦車はフランス市中のガソリンスタンドで給油する(ご存知の様に、ドイツ軍戦車はすべてガソリンエンジン)という事態に陥っている。  また太平洋戦の末期硫黄島の激戦で、アメリカ海兵隊は、文字通り死守する日本軍の前線を一気に押し上げて追い詰めるべく突進したが、両翼の陸軍部隊がこれに追随できず、海兵隊が日本軍支配下地域に孤立する事態を引き起こし、海兵隊と陸軍の深刻な対立、陸軍司令官の更迭という事態にまで発展している。 志願兵による精兵揃いの海兵隊と、一般召集兵からなる陸軍歩兵部隊との戦意・技量の差と言えばそれまでであるが、ことほど左様に同時に戦線を押し上げるというのは難しい作戦ではある。 第100大隊の場合、突撃ライン全部が敵の守備陣地を追い越してしまったのであるから、ドイツ軍の撤退が間に合わないほどに速い進出であったとは云え、笑えない失敗であった。

さて、10月20日の正午に第100大隊がC高地を奪取して東の山麓を見ると、ドイツ軍が戦車をはじめとして再結集している様子がつぶさに観測できた。そこへ第442連隊長ペンス大佐から、師団司令部命令により直ちにC高地を放棄してD高地に転進せよとの電話命令が到達した。キムを始め、大隊参謀は皆首を傾げた。キム大尉は自らが野戦電話を取って連隊本部に眼下で繰り広げられている敵の動向を報告し、もしこのままD高地に移動すれば直ちに敵はここを再奪取し、敵の反撃の要となってしまうこと、それにまだ戦闘は継続中であることを強調して命令の撤回を求めた。 これに対してペンス連隊長は哀願調で命令に服従することを求めた為、止む無く第100大隊は苦労してせっかく奪取したばかりのC高地を撤収せざるをえなかった。 後日キムはその時ペンス連隊長の横にはダルキスト師団長その人が居た事、そしてC高地撤収の理由がダルキスト将軍麾下第36師団の北方に隣接して布陣していた第45師団の持ち場であったことが判明した為のセクショナリズムであった事を知る。 競争社会で個人主義のアメリカは、戦争という国家の大事においても、こうした信じられぬ愚行を行う人物を輩出することがある。

この地区の要衝ブリュエーラの制圧を果しても、ドイツ軍の執拗な抵抗は止まなかった。イタリア戦線のドイツ軍は撤退しながらの戦闘で、再び押し返して来るケースは稀であった。 少年兵や老人兵を投入してまでもドイツ軍はこの地区を失うまいと必死であった。それが二世部隊を戸惑わせた。 白人兵士から今までは突進することに何の躊躇いも無い鬼神のような奴等だと思われていた二世兵士の間にも、押したり引いたりの泥沼のような間断の無い戦闘の結果、彼等には無縁だと思われていた戦争神経症の被害者が出始めたのもこの地域の戦闘からであった。 第442連隊は10月20日から23日にかけて、D・C高地、ブリュエーラから北東約3kmの村ベルモンや、ブリュエーラの東約1kmにある505高地703高地といった地域にかけて、ドイツ軍と一進一退の戦闘を繰り広げ、消耗を重ねていた。

第100大隊は20日の夕刻にブリュエーラの町まで降りて来たが、やっと「休める」と思った束の間、ブリュエーラの北東に進出する師団命令が来た。M1ガーランドやトンプソンの手入れをする間もなく第100大隊は追いたてられるようにブリュエーラ北東の山地に分け入るしかなかった。第100大隊G3のキム大尉はペンス連隊長に無線で不平を述べているが聞き入れられない。 第100大隊の将兵は視界せいぜい3mの漆黒の闇の中をひたすらに進軍し、ブリュエーラから北東に延びる山岳地帯の尾根に取りつき、暗闇の中ドイツ軍との小規模な戦闘を繰返しながら、明け方には命令通りにベルモンとビフォンテーンの村を結ぶ街道を見下ろす高地に陣取った。兵士達の消耗は激しく、まさにくたびれ果てていた。 確保した高地はベルモンに付近に終結して再編しつつあったドイツ軍の退路として重要なビフォンテーンに繋がる道路を見下ろし、退路を塞ぐためには絶好の位置にあった。
(つづく)



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