第三章 ★いざ、戦場へ・・・部隊発足の足取り



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<真珠湾攻撃とその前後>
<米陸軍第100歩兵大隊の発足>
<米陸軍第442歩兵連隊の発足>
<真珠湾攻撃とその前後>

imperial navy.gif日本時間1941年12月8日、ハワイ時間同12月7日払暁、山本五十六聨合艦隊司令長官麾下の帝国海軍機動部隊(南雲忠一中将司令官)空母「赤城」以下6隻から発進した艦載機は、第一波、第二波の合計350機でハワイ真珠湾のアメリカ海軍基地を奇襲攻撃、甚大な被害を与え、ここに太平洋戦争の幕が切って落とされた。これにより米国はアジア太平洋戦域において対日参戦するのみならず、欧州アフリカ戦域において対独参戦することにもなるわけである。この戦闘の模様に関しては、日米合作の大作映画「トラ!トラ!トラ!」に最もリアルに表現されている。

uss-arizona.gif帝国海軍機動部隊が真珠湾を攻撃した時、前章で述べた通りハワイは米国準州であり、正式な米国の「国土」ではなく「領地」であった。後の歴史評価において、ルーズベルト大統領は真珠湾攻撃を知っていたとか、欧州戦線に正式に参戦する大義名分を得て国民を納得させる為に、わざと日本に先に攻撃させた・・・等の分析が存在する。そうした説の真偽をここで追求するつもりは無いが、「国土」ではない「領地」を攻撃させ、しかも宣戦布告のない「騙し撃ち」であることを喧伝すれば、単純素朴な米国民性を知り尽くしたルーズベルトには、チャーチルの執拗な参戦要請に応え、参戦を渋る米国民を戦争に踏み切らせる絶好の機会であったことは間違い無い。たった一つの大きな誤算は、アメリカ太平洋艦隊を斯くも惨憺たる状況にまで破壊し得た帝国海軍の航空戦闘能力を過小評価していた事と、緒戦で米国のアジアでの橋頭堡フィリピンまでも、あっさりと占領されてしまった事であろう。 開戦時の米陸軍参謀総長マーシャル将軍の腹心で、作戦参謀であったウェデマイヤー准将(戦後退役時中将、当時、オーバーロード作戦=ノルマンディー上陸作戦の立案責任者)は戦後に執筆した回顧録において、この頃、政治的に老獪な英チャーチル首相に翻弄され続け、アジア太平洋に目を向けようとしなかった米軍総司令官ルーズベルトの戦略眼の無さを、痛烈に批判している。

さて、米国のハワイ駐屯陸軍司令部は直ちにハワイ全土に夜間外出禁止令を発令(ほとんど戒厳令のようなものであった)して全島が厳戒体制に入る。 真珠湾航空攻撃は上陸部隊侵攻の前触れであると判断したのである。あにはからんや、南雲機動部隊は真珠湾に不在だった空母の索敵も、燃料基地攻撃も行わず、さっさと帰投していったのであるが、ハワイの米軍は恐怖のあまりパニックに陥った。なにしろそこには敵国人である日本人移民が住民人口の40%近くも占めて住んでいたのだから、日本軍に通じ、上陸を手引きするに違いないと疑われるのも止むを得ない状況にあった。そのあたりの米軍の慌て振りに就いては、スコフィールド兵営に駐屯していた米陸軍第25歩兵師団に従軍経験の有るジェームス・ジョーンズ原作の小説の映画化である名作映画「地上より永遠に」にそうした描写が登場する。

さて、開戦前夜のハワイの日系人社会はどうなっていただろうか。再び菊地由紀著「日系二世の太平洋戦争」における詳しい記述に拠ると、20世紀初頭にオアフ島を中心に白人資本農園の労働者達が幾度にわたる労働争議を起こしているのだが、この中心となっていたのは日本人移民であったらしい。結果的に農園労働者達は半奴隷 状態であった労働条件を大幅に改善することに成功したのだが、これを契機に白人資本家や米国政府は日本人の団結力を目の当たりに見せつけられ、警戒心を持ち始めるのである。こうした白人の被害意識とともに、もう一つの重要な要素として、生活水準が向上するにつれて高等教育を受ける日系人も増え、官吏、教師、医師、弁護士などの職業に就く者が増えたにも拘わらず、相変わらず二級市民扱いであった事による日系人の米国社会に対する不満が存在したことが挙げられる。 それらの相乗効果により開戦前夜にいたるまでのハワイ社会は、かなりのストレスを抱えていた事になり、米国社会でなかなか認められない差別のストレスが日系人の意識を日本に向けさせることがあっても不思議ではない。

日本人移民一世は大日本帝国臣民であり、米国籍は有していない。 これに対し、ハワイ生まれの二世たちは米国の出生地主義により自動的に米国市民であるのだが、1924年の帝国議会制定により、領事館に届けることにより日本国籍を放棄できることとなった(それ以前は出来ず、二重国籍となっていた)にも拘わらず、日本国籍放棄の届け出を行う者は少なかったのである。 米国移民は一時的な出稼ぎであり、いずれは一旗挙げて故国に錦を飾りたい、という移民一世の深層心理が二世たちに強い影響を与えたであろうことは想像に難くない。もちろん、米国を自らの故国と割り切って日本国籍を放棄する者もいたのであるがマジョリティーではなかった。日米開戦時のハワイの日系人約16万人のうち二世は12万人と3/4を占めていたのであるが、その二世の60%以上が二重国籍保有者であったのである。一世と合わせると、ハワイの日系人の70%が日本国籍も持っていたことになる。二世の若者で日本の大学に進学する者も増え、日本軍国主義の膨張に伴い、日本から多くの教師や僧侶がハワイに渡り、「日本人学校」で皇民化教育を始めるようになり、開戦までの10年間は移民一世の思惑通り、「ハワイの中の日本」化は相当に進んでいたと考えられるのである。 もっとも、この時期自らのルーツを求めて日本に留学した二世達は、憧れの日本で、逆に米国生まれとして偏狭な差別を受けて、殆どの若者がハワイに帰国してしまっているのだが・・・。

さて、話しを真珠湾攻撃の後に戻そう。
真珠湾攻撃の後、ハワイ日系人社会の各団体の責任者、リーダー、日本語新聞関係者を中心に多くの日系人が逮捕拘束されている。菊地由紀著「ハワイ日系二世の太平洋戦争」の記述によると、第二次世界大戦期間を通じてその数は約2,000人、移民一世が多い。ところが、取り調べの結果早い時期に数百人が開放されており、戦争を通じて、依然として危険であるとして本土に送られ拘束された日系人は僅かに約700人であった。それ以外のハワイ16万人の日系人の殆どは、開戦当初上記のような拘束はあったものの、終戦までにほぼ平常な環境に戻っているのである。 米本土西海岸に在住した日系人約12万人は一人残らず内陸の収容所に収容されているのに比べると、戦略的要衝でもあり、狭い面積に陸海軍基地が多く散在するにも拘わらず、ハワイのこの実情は一体どうしたことであろうか。 現実には米政府はハワイの日系人を大量に本国移送することを計画していたのにである。

この答えはハワイ米軍の軍政にある。ハワイ人口の40%を占めていた日系人のうち、米国籍を持つ二世は、当然兵役の義務を負う。開戦時にハワイで兵役に就いていた現役日系二世兵士は1,000人以上存在した。また、現役兵とは別に、既に兵役を終えたり、大学在学で兵役を免除された予備役も大勢存在したのである。軍内部に日系兵士が武装して存在することは、当然軍の脅威となり、陸軍省は開戦後直ちに日系人兵士を現役から排除することを勧告、さらには、1943年3月に日系人を徴兵することが停止された。 予備役兵達も開戦後、州兵組織のような「ハワイ防衛隊」に召集されたものの、労働任務に就かされ、本来の軍務に就く道は閉ざされたのである。
先に述べたように、日系二世はハワイ日系人社会を牛耳っていた一世の影響を強く受け皇民思想教育を受けてはいたのだが、米国で生まれ育っているので、正直な感情としては自分は米国人だと思っている。差別を受けていた為に、アイデンティティーを求める方向が止む無く日本に向いていただけである。 開戦とともに日系人一世の重鎮達が一気に逮捕され、日系人社会は一気に戦後日本のオールド・パージのような状態になり、二世の本音が自由にしゃべれる様になった。皇民化教育の片棒を担いでいた日本語新聞もいつの間にか「米国への忠誠」を呼びかけるようになった。 戦時中は積極的に大本営の片棒を担いだにも拘わらず、戦後日本では、自己批判も無く堂々と進歩派メディアを標榜して現在に至る某大新聞と同様の見事な変節ぶりである。

開戦後、従来の差別が益々顕在化し、ここに自分達の立場をはっきりと認識せざるを得なくなった現役日系二世兵士、及びハワイ大学在学生を中心とする予備役二世たちは、本来の軍務に就き国民の義務を果たすことを強く求めて積極的な運動、嘆願を行っったのである。その間、開戦後米軍が危惧した日系人によるサボタージュや破壊活動は一切起こらなかった。真珠湾攻撃の際にニイハウ島に不時着した零戦パイロットを庇い、一緒に逃避して自決するという有名な「ニイハウ島事件」の日系移民ハラダの例が、唯一の米国に対する敵対行動と看做されたのみである。 当然である。帝国陸海軍はハワイ奇襲に際して、ハワイの人口の40%を占め、祖国に熱い思いを抱く帝国臣民が存在することを戦争遂行上何ら考慮しなかったのである。だから事前に諜報員を送り込み、破壊活動を行う組織を作ることなど思いもよらなかったに相違ないのであって、開戦後に敵対行動があろう筈もなかったのである。


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<米陸軍第100歩兵大隊の発足>

上に述べた様に、ハワイの日系二世達は米軍上層部が危惧していたのとは正反対の、米国に忠誠を誓う行動を見せ、軍隊内においても予備役任務においても、不本意な労働任務ですらも献身的な働きを発揮する。
そもそも、開戦前から日系人を危険視していたのは地元の白人社会ではなく、本土から派遣された軍人達であった。この時期にハワイ軍政の責任者として派遣されていたハワイ地区司令官ディロス・C・エモンズ中将もそうした懐疑派の一人であったが、ハワイ社会を知り、地元関係者と協議を重ねるにつれ、ハワイにおける日系人のプレゼンスの大きさに驚愕し、且つ、日系二世達の開戦後の愛国的な貢献を目の当たりにして、日系人なくしてハワイの防衛も有り得ない事に気が付くのである。エモンズは連邦政府の日系人の大量本土移送計画にも、陸軍省による軍務から日系人排除方針にも反対の姿勢を取り、のらりくらりと遣り過ごした。また、カリフォルニア州では反日グループが州内の日系人を移送することを強硬に政府に求めたのに対し、ハワイ準州では各分野で、ついぞ日系人をハワイ社会から排除して本土に移送せよという声は出なかったのである。ドウス・昌代著「Unlikely Liberators」(「ブリエアの解放者たち」)によると、多民族共存のハワイ伝統の"アロハ精神”がそれをさせなかったという。 そして結果的にはハワイ日系人本土移送案は潰れてしまうのである。 こうしたハワイ日系二世を取り巻く環境は、本土西海岸の日系二世の場合とは対照的で、後に二世部隊の編成に際しても、両者の微妙な意識のズレを生むのである。

しかし1942年5月、米海軍情報部は、帝国海軍がミッドウェー攻略の途にあることを確認し、ニミッツ提督率いる迎撃部隊がハワイを発進する。この段階でハワイ地区司令官エモンズ中将は一つの不安を抱えていた。それは、もし、ニミッツ部隊が帝国海軍との戦闘に破れて、日本の上陸部隊が米軍の軍服を着てハワイに潜入上陸したとしたら、日系兵士とどうして識別したら良いのか・・・。しかも日系兵士は準州内の各島の沿岸警備にあたっている。
エモンズ中将はジレンマに陥り、ワシントンの陸軍省に一つの提案を行い、直ちに受諾された。1942年5月の下旬、各島に分散していた現役日系二世兵士は突然オアフ島スコフィールド陸軍基地(映画「地上より永遠に」の舞台となった兵舎のある基地)に集合させられ武装解除の上で、陸軍内に約1,400人の日系人兵士の集団(Hawaii Provisional Infantry Battalionと呼ばれた)が組成された。

6月5日になって、この集団に突如乗船命令が発せられ、秘密裡に軍艦 " S.S. MAUI " により海路サンフランシスコ奥のオークランド港に輸送された後、6月16日に陸路ウィスコンシン州西部ミネソタ州境から50Kmほど東に位置するキャンプ・マッコイに到着した。ここは、太平洋戦域で米軍の捕虜となった帝国陸海軍の将兵が米国内で収容された場所でもあり、真珠湾攻撃の際に湾内侵入を試みた特殊潜航艇5隻10人の海軍将兵のうち只一人生存して日本軍捕虜第一号となった酒巻海軍少尉や、ソロモンで搭乗の艦爆を撃墜され虜囚となった経験を持つ直木賞作家である豊田穣元海軍中尉達が傷心と焦燥の日々を過ごした、日本人には因縁の地でもある。北緯44度というから、日本でいうと、網走や留萌と同じ緯度に在り、冬季は過酷な地であったろうことは容易に想像できる。 因みに、現在キャンプ・マッコイには既に部隊の駐屯はなく、兵舎もないが、依然として米陸軍の管理地として同じ場所に存在する。

さて、オークランドに到着した段階で、殆どの二世兵士達1,400名は分散して各地の部隊に移送されると思いこんでいたが、この時初めて、この集団はどの師団にも連隊にも属さない日系二世だけで編成された「独立大隊」であることが明らかになり、自分達の任務が「労働奉仕」ではなくて米陸軍の正式な歩兵としてのものであることを知り、祖国への忠誠心を証明するために戦闘部隊に参加して前線で戦うことを志願し続けていたた日系二世達を奮い立たせた。 後に欧州戦線で勇猛果敢で鳴らした「パープル・ハート大隊」、あるいは通称「ワン・プカ・プカ」(ハワイ語で100の意味)こと、アメリカ合衆国陸軍第100歩兵大隊の誕生である(以下、主に「第100大隊」と略称する)。因みに、日系二世兵士がホノルル港を本土に向けて出発した二日後に、海軍はミッドウウェーの勝利を伝え、エモンズ中将の不安は杞憂に終ったのであるが、結果的にはエモンズは、日系人の名誉回復に繋がる貴重な決断をしたことになる。 しかし、この二世部隊の本土への移駐は軍の機密で、地元紙も放送局もこの事実を知らず、一切報道されることはなかったので、殆どの兵士が家族や友人に別れを告げる間もなく、ひっそりと出征して行ったのである。二世兵士達は徐々に遠ざかるホノルル港のアロハ・タワーが遥か視界から消えるまで、誰も上甲板を去ろうとはしなかったという。

100thMark.gif多民族移民国家であるアメリカ合衆国の軍隊で、同一民族だけで編成された軍隊は100大隊が史上初めてのことであった。ルーズベルト大統領や軍の幹部は、まだ日系人を信頼するようになった訳ではなく、第100大隊という名称自体が差別そのものであった。通常米軍の「大隊」は「連隊」の傘下に三大隊というのが普通であり、「100」という大隊はありえなかったので、「連隊」という親のいない「私生児大隊」といわれ、「100」には「誰も欲しがらない」という意味が込められていたのである。 
それでも第100大隊の二世兵士達は訓練に邁進した。 もともと士気は高い。瞬く間に第100大隊はキャンプ・マコイの基礎訓練で優秀な成績を残し、半年後の翌1943年2月にミシシッピー州のキャンプ・シェルビーに移動する。キャンプ・シェルビーは、二世部隊のメッカと言える地であるが、ここでも第100大隊は厳しい訓練を重ね、戦闘訓練においても、座学においても抜群の成績を残すのである。この頃には、白人の上層部の二世部隊に対する見方は当初と完全に変わってきていた。白人に比べて小柄で貧弱な体躯の日系人を最初に見て、二世部隊の構想そのものに疑問を感じていた連中も日系二世兵士の実力を認めざるを得なくなり、その実力は米陸軍内に広く知られるように成って行った。

どれほど第100大隊が優秀であったか例をお話しよう。再びドウス・昌代著「ブリエアの解放者たち」の記述によると、歩兵が分解携行する「重機関銃」(筆者注:この秀逸な著作は、日本語の原作、英訳ともに軍事用語、兵器知識に唯一の難点があり、この場合、恐らく30口径機関銃、もしくは水冷式ブローニング機関銃を指すのだと思う)を急な戦闘開始時に何秒で組み立て、射撃可能にできるかという連続動作の陸軍マニュアルは16秒であった。これを当時の選抜エリートであるフォート・ベニングの士官候補生学校の生徒は平均11秒でやってのけている。 これに対して、第100大隊兵士の平均組み立て時間は、なんと5秒であったという。陸軍マニュアルの1/3という驚異的な記録を残しているのだ。 また、ライフル歩兵よりも重量物を搬送しなければならない機関銃分隊の行軍速度は、当時白人の部隊の平均が時速2.5kmであったのに対し、第100大隊は時速3.3kmを記録しているのだ。 平均身長が5フィート3インチ(約160cm)しかない、白人より著しく体躯の劣るこの日系二世兵士達の技量を「優秀」と言わずして何と表現したらよいのか。

戦時下の自分達の置かれた立場を十分過ぎるほど判っていた日系二世たちは、休日の基地外では、地元民に受け入れられるように細心の注意を払ったといわれる。しかし、多くの武勇伝も残している。もともと柔道や剣道など、日本の伝統的格闘技の素養を持つ者の多かった当時の日本人と同じ文化を共有して育った日系二世達は、アメリカ生まれといえども、やはり同じ素養を持つ者が多かったようである。他の部隊の白人兵士に侮辱的なからかいを受けて乱闘騒ぎになることも度々であったというが、軍事訓練でも優秀な成績の第100大隊の兵士達は基地外の私闘でも大男の白人達に負かされる事は少なかったという。 ドウス・昌代著「ブリエラの解放者たち」によると、まだ二世兵士達がキャンプ・マッコイに駐屯していた或る時、「Jap !」の類の日本人に対する侮蔑の言葉を吐いたテキサス第2師団の白人兵士と大乱闘になり、テキサス兵は38人が怪我で入院する騒ぎになったが、日系二世は止めに入ったMPに暴行を受けた1名が入院しただけであったという。西海岸の日系二世なら俯いてその場を遣り過ごしたかもしれないが、ハワイアンは違った。彼らにとって、「Jap」という言葉は「戦闘開始」のサインであったのだ。一つには大隊の指揮官に恵まれたという幸運もある。第100大隊発足当時の白人の大隊長と副官はハワイ勤務の経験者で、日系人の素養もメンタルな部分も熟知し、そうした場合にも好意的であったと云われる。

第100大隊は、キャンプ・シェルビーから、更にルイジアナ州での泥湿地での戦闘訓練を経て、1943年6月に再びキャンプ・シェルビーに戻る頃には、米陸軍で知らぬ者無き「精鋭部隊」の呼び声高かったが、依然として出動命令は下らない。参戦モチベーションの高い二世兵士達の心は「あせり」と「焦燥」に揺れる。
時のアメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトは、非常に偏狭な人種差別論者であったといわれる。欧州戦争への介入を拒否する過半数世論を相手に、英仏を挑発し、ドイツを挑発し続け、有名な「ハル・ノート」により日本の自尊心をズタズタにして戦争に追いこんだ。一方では、日本、ドイツ以上に危険極まりないボルシェビキ国家ソ連を支援し、ナチスドイツと代理戦争をさせた。そして、ついにと言うか、日本の真珠湾攻撃により、単純素朴な国民世論の操作に成功し、国家を全面戦争に導くことに成功するのである。
かくもルーズベルトは日本の運命に関わる重大な役割を果たしているのであるが、彼は日系人をまとめて戦力化することには応諾はしたものの、彼らを前線に投入することは依然躊躇していた。 アメリカというのは面白い国で、どんな時代にも、如何なる強権政治が施行されようと、素朴な正論というのが示され、暴走にブレーキをかける力が働く。元来日系人の隔離政策に懐疑的であった時の陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャル大将や海軍のニミッツ提督も日系人の境遇を憂慮した二世部隊参戦容認派であった。そんな声にルーズベルトも、1943年1月に偉大なる建前による大統領令を出して日系二世による戦闘部隊の編成を公式に認めざるを得なくなって来ていた。

 曰く、「我国が建国以来、国是としてきた所謂アメリカニズムとは、内面の問題であって、人種や祖先の問題ではない」

しかし、彼の日本に対する蔑視は終生変わることはなかった。


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<米陸軍第442連隊の発足>

1942年6月に第100大隊が発足して、米本土の基地で激しい訓練に明け暮れていたが、この時期の通常の新編成部隊は3ヶ月から6ヶ月の訓練で戦場に投入されるのに比べ、第100大隊への出動命令は出ない。兵士達はあせった。そんな中で1943年になり、1月28日にルーズベルト大統領は日系二世による戦闘部隊の編成を公式に承認して上に述べたステートメントを発表したのである。
先に発足した日系二世の現役兵により編成された第100大隊の精鋭振りに驚嘆していた陸軍省は、この大統領声明を受けて、新たな日系人部隊の編成に取りかかる。部隊名は「米陸軍第442歩兵連隊」と名付けられた(以降、主に「第442連隊」と略称する)。当初の予定では、米本土から3,000名、ハワイから1,500名の合計4,500名の志願者を募るはずであった。 ところが陸軍省の思惑は大きくはずれることになるのである。先にも述べたように、これは日系人が多く存在した米国本土西海岸地域とハワイの夫々の社会における日系人の相対的な地位、あるいは存在意義の違いが大きく影響している。

ComeSeeTheParadise.gifまず、西海岸の状況から見てみよう。
米国西海岸、主にカリフォルニア州、ワシントン州在住の日系人は開戦から間もなく、1942年2月19日の大統領特別令第9066により、老人から子供まで、ほぼ例外無く(たぶん100%)内陸部の集団生活キャンプに送られることになる。表面上はそう呼ばれていなかったが、早い話が強制収容所(今日、米政府側の資料でも明確にConcentration Campと表記される)である。命令を受けた日系人たちは10日のうちに親子2代に亘って営々と築き上げた財産を全て処分して、身の回りの荷物をまとめて従うしかなかった。 荷物は生活必需品に限られ、宝石・貴金属・現金は禁止され、銀行預金は凍結された。日系人には一人々に番号が言い渡され、以降日系人は番号で呼ばれた。ここまで読んで、驚いた読者もいらっしゃるだろう。 そう、アメリカ合衆国も日系人に対して、ナチス・ドイツのユダヤ人に対する仕打ちと同じ様なことを行っているのである。違いは収容所で大量殺戮が行われたか否かであって、加えて、敵性国民としてドイツ系やイタリア系アメリカ人が日系人のような仕打ちを受けなかった事からも、明らかに人種的な差別の意識も窺えるのである。 重いテーマだが、このあたりの状況は、1990年公開の米映画「Come See The Paradise」(邦題「愛と哀しみの旅路」)(Alan Parker監督)や、2000年4月本邦公開の工藤夕貴主演米映画「Snow Falling on Cedars」(邦題「ヒマラヤ杉に降る雪」)(Scott Hicks監督)に表現されているので、一見をお奨めする。SnowFallingonCedors.gif

西海岸の日系人たちの衝撃は想像するに難くない。Thelma Chang著「I Can Never Forget」の記述によると、ある日系二世は、真珠湾攻撃の当日である12月7日にサンフランシスコの中華料理店の2階に居て、通りで日系移民一世が逮捕されるのを目撃し、既に陸軍省は開戦前に日系人の調査をし終えていることを確信し、戦慄するのである。 また、第一次大戦の復員軍人であった、ある日本人移民一世は、一人ロスアンゼルスのホテルに部屋を取り自殺した。 遺骸の手には、彼が人生を賭して手に入れた「合衆国名誉市民証」が握られていた。

西海岸の日系人12万6千人が強制収容所に隔離された1942年の秋に、日系二世マイク・マサオカを中心とするJACL(日系アメリカ市民協会)は、米国政府、陸軍省に対して、「徴兵を受ける権利の復活」を申し立てた。 この申し立てに関しては、収容所内部においても、政府・軍の仕打ちに怨みを持つ日系一世と、戦って忠誠を証明するべきとする日系二世との間に深刻な対立を生じさせたが、一方で合衆国政府は既に予想以上の成果を上げていたハワイ出身者による第100大隊の事例を鑑み、上記の大統領令を発布するに至るのである。
JACLは、新たな「二世部隊」の日系人募集に対し、まずは強制収容所からの解放が先決で、さもなくば志願者は多くないだろうと猛反発したが、結局は、国家への忠誠を示すのが先で、絶好の機会を捨てるのかとの陸軍省の圧力に屈し、日系二世の志願に同意せざるを得なかった。 強制収容所から志願兵を送り出した西海岸の日系人たちは、そのまま終戦近くまで収容所から解放されることはなかった。 西海岸の日系二世たちにとって、二世部隊への志願は、自分自身とその家族のアメリカ合衆国に対する忠誠心の、まさに「踏絵」であったのである。
そんな事情もあって、本土西海岸の日系二世の志願兵は当初の募集予定3,000人に対して、半分の約1,500人しか集まらなかったのである。

次にハワイの状況を見てみよう。
ハワイでの状況は全く違った。「二世部隊」志願兵募集が発表されるやいなや、ハワイの日系二世の若者は募集所に、まさに殺到したのである。ハワイ大学在学中であった日系二世の若者は、大学から募集所まで熱狂的な大行進を行った。 これまで述べたように、必ずしもハワイの日系二世が合衆国に対して特別の愛国心があったわけではない。 菊地由紀著「日系二世の太平洋戦争」によると、当時ハワイにおいて志願兵募集の対象年齢とされた18歳〜39歳の人口は独身・妻帯を含め約2万5千人であったが、募集開始から一ヶ月の間に、なんと約1万人の志願者が出頭したのである。 この時ハワイ大学在学の予備役から真っ先に募集所に駆けつけた一人に、現ハワイ州選出上院議員ダニエル・イノウエ(志願時、医学部在学中)がいる。かれは後にイタリア戦線で勇猛果敢な小隊長として戦闘中に右腕を失い、「パープル・ハート勲章」は勿論、「特別戦功十字章(DSC)」他を授与された英雄として凱旋することになる。

既に述べた様に、ハワイにおいては、地域経済においても、地域の戦術的防衛においても、総人口の約40%を占める日系人は無視できない比率を負担しており、一部の日系一世たちが逮捕され本土に送られたり、ハワイの隔離施設に拘禁されたりしてはいたが、殆どの日系人は戦前と変わらぬ生活を許されていた。 これにはハワイ軍政の司令官であったエモンズ中将の本国に対する説得や、カリフォルニア州とは異なる地域白人の意識に拠るところが大きい。 もちろん、ハワイ在住日系人の志願の動機も、決して単純な事ではなく、実際に様々な事情が存在した。志願した若者の中には兄弟姉妹が日本で暮らしているという複雑なケースも結構あったようであり、また、地元日系人社会が新聞や学校などで盛んに志願を勧めて、「やむなく」という実に日本的に半強制的の場合もあったようである。
しかし、少なくとも本質的に日系ハワイアンたちは、敵性国民として西海岸の日系人ほどの仕打ちを受けず、また元々が、政治支配体制はともかく、日系人は地域のマイノリティーとはいえず、既にかなりの日系人が高学歴で官界・経済界でそれなりの地位に就くことが出来る環境に成りつつあったので、カリフォルニア州ほどの屈辱的な被差別意識を持っていなかったのではないかと思われる。しかもハワイの日系人社会は西海岸の日系人の境遇を聞き及んで知っており、西海岸同胞に深い同情を抱いていたと言われる

さて、陸軍省は困った。「二世部隊」の募集計画と、実際の志願状況が逆転してしまっているのだ。しかし戦局は更に逼迫している。 止む無く西海岸での不足員数1,500を、ハワイからの志願を受け入れる事で穴埋めする他なかった。なにしろハワイでは募集の6倍以上もの志願があったのだ。

Iwolani1944.jpg1943年3月28日に、ハワイ準州オアフ島ホノルル市中心部にあるカメハメハ王朝時代の宮殿イオラニ・パレス内の広場で、日系二世出征兵士の有名な壮行会が開かれ、2,900名の志願兵が結集し、日系人以外のホノルル市民も見守る中、見事な分列行進を見せ、一気に日系人への信頼感と期待感を抱かせる効果をもたらした。 1943年4月4日、スコフィールド基地を列車で出発し、ホノルル市のイウィレイ駅に到着した志願兵たちは、ホノルル港まで再びパレードを行う。アラ・モアナ大通りの沿道には家族や縁者が大勢詰め掛け、バンザイの声も上げられたという。イノウエ上院議員は「あれは死地に赴く442ndの、惜別のパレードであった」と当時を述懐している。
約10ヶ月前、誰にも告げず、誰にも見送られず、密かに「第100大隊」が出航した同じホノルル港の第11埠頭から、新設「アメリカ合衆国陸軍第442歩兵連隊」の日系二世兵士たち第一陣を載せた軍艦S.S.Lurlineは、今度は家族・友人の盛大な見送りを受けて米本土に向けて岸壁を離れて行ったのである。

五日の航海の後、「442連隊」のハワイアン・ボーイ達は、兄貴分である「第100大隊」と同じく金門橋をくぐり、サンフランシスコ経由オークランドに到着した。オークランドからは列車に分乗してミシシッピー州のキャンプ・シェルビーを目指したのであるが、この時列車の経路は幾つかに分けられている。北部・中部・南部をそれぞれ経由する列車には、白人の兵士が米軍の軍服を着た日系人を護衛するために同乗している。日系兵士に対しては、列車のブラインドを下ろすように命じられた。この措置は、反日感情の高いカリフォルニア州を過ぎるまで行われたというが、実際には日系人を守るためだったのか、或は太平洋岸の諸施設をとりあえず日系人に見せないためだったのか、本当のところは判らない。
Thelma Chang著「I Can Never Forget」によると、列車が南部に入った頃、ある二世兵士達は列車の中で白人将校から、「このあたりには二種類の人間がいることを知っておくことだ。それは白いのと黒いのだ」と忠告され、誰かが「俺達はどっちだ?」と問うと、「自分達を白人だと思うことだ」と答えられたことを憶えている。事実南部に入って停車する駅は、切符売場も全て「White」と「Colored」に分けられており、南の島で生まれ、おおらかに育ったハワイアン達は、初めて米本土の厳しい現実に直面するのである。こうして、「442連隊」の日系ハワイアン達がメキシコ湾に近いミシシッピー州の湿地帯にあったキャンプ・シェルビーに到着したのは、1943年4月も中旬であった。

ハワイアン・ボーイ達のキャンプ・シェルビーへの到着に先立つこと約2ヶ月、開戦前に既に兵役に就いていた日系二世兵士と日系人強制収容所からの志願者からなる西海岸出身の日系二世達は、1943年2月には第一陣がキャンプ・シェルビーに到着している。当時、キャンプ・シェルビーは米本土内でも三指に入る大規模な訓練基地であったが、「442連隊」に割り当てられた宿舎は酷いものだった。この先着した西海岸出身二世達は、やがて続々と到着する「442連隊」の中核となるのであるが、当面の仕事は老朽というか崩壊寸前の兵舎を居住可能とする為に、土木・建築、配管、塗装、植栽から煙突掃除まで、全てをこなして後続を待った。ところが、この微妙なタイムラグが、後に本土出身二世とハワイ出身の二世との間に軋轢を生むことになってしまう。

1943年4月にハワイアン・ボーイ達がキャンプ・シェルビーに到着してみると、兄貴分の100大隊とは別に、既に二世兵がいる。本土出身の二世であることは容易に想像がついたが、なんと言葉が通じないのだ。これには双方が驚いた。 なにしろハワイ出身者は俗にピジン・イングリッシュといわれる英語・日本語・チャモロ語などが混じった滅茶苦茶な英語であった。ハワイでも学校においては正しい英語を教える。だが仲間内で喋る時には、ついピジンになる。 本土出身の二世には、まるで外国語のようであった。加えて、明るくおおらかで、物怖じせず、ワイワイガヤガヤと騒々しい彼らが太平洋の未開の島から来た野蛮人のように映ったのである。
一方で、ハワイ出身者から見ると、本土出身者は、なんだか暗く、屈折していて、ハワイ出身者を馬鹿にしているようにも見受けられ、ハワイアン・ボーイ達がオフにウクレレを弾いて唄ったり、頻繁に開帳されたサイコロ賭博にも加わろうとせず、お高く止まっている様にも見える。加えて、ハワイ組が到着した時点で、442連隊の各中隊の下士官は殆どが本土出身者で占められていたのである。 これは442連隊のうち、ハワイから到着した日系二世は、学生や教師、その他の職業に就いていた者が殆どであるのに対して、本土から参集した二世は、開戦前の徴兵による現役兵が多く存在したので致し方ないのであるが、ハワイアン・ボーイには感情的に納得できず、両者の確執は直ちに、抗争=喧嘩という形になって現れた。 結果は、数で勝り、戦意が高く、団結心の強いハワイ組の圧勝であった。 前にも述べた様に、同じ日系二世でありながら両者には志願動機、戦意、育った環境などに、大きな違いがあった。本土の収容所の中から志願した兵士達は、家族から裏切り者、家名の名折れと罵られ、まるで逃げるようにして出征した兵士達が多く存在した。何故そのような状況に至ったかは、個別には複雑な事情を孕むが、陸軍省が本土の強制収容所内で志願を募るにあたり、「忠誠登録」を強いた事が最も直接的な原因となっていることは明らかであった。

「忠誠登録」とは、当時陸軍省の中でも、日系人の強制収容を問題視する声が多く、また、もともと勤勉な働き者と評判の高かった日系人に対し東部・中西部の企業から労働者として需要が高まっていた折、日系人を収容所外に移動させる大義名分として、また二世部隊の編成にあたり日系兵の忠誠心を宣誓させる為に考案されたもので、収容所に居住する17歳以上の男女すべてにこれが求められたのである。 当初の当局の発想としては、悪意だけとは思えない部分も有るが、最終的な「忠誠登録」質問状には日系人には耐えがたい質問が含まれた。 米国生まれの日系二世は紛れもない米国人である。その二世に対しては、「命令とあれば米軍兵士となり戦闘任務につくか」と帰化申請の外国人に求めるが如き質問で深い侮辱を与え、米国籍を与えられていない一世には「合衆国に無条件の忠誠を誓い、日本の天皇その他外国政府、勢力への如何なる形の忠誠・服従を否認する」ことを求めたのである。 米国籍を持たぬのに、これに「Yes」と言えば、大日本帝国臣民である彼らの立場はどうなるのか?
如何にアメリカ人が天真爛漫で他への配慮があまり行き届かない民だとしても、こうした矛盾を平然と押し付け、且つ、強制収容所の日系人は終戦の間際まで殆ど解放されることは無かったのであるから、日系人収容所問題は、やはり米国現代史の一大汚点なのだろう。当然、収容所の日系人の間では賛否両論が沸騰し、死者まで出る騒動に発展し、親子兄弟間の断列まで生じさせている。その中での二世部隊への志願であったのだ。こうした背景に、出陣パレードを行い、港を埋め尽す盛大な見送りの中を出征して来たハワイアン・ボーイ達とのあまりの違いに、本土出身二世達には深い同情を禁じ得ないのである。 因みに、ハワイの日系人にはこの「忠誠登録」は強要されなかった。理由は戦前から狭いハワイの中で、潜在的な危険分子である日系人の思想調査は早くからFBIと軍当局によりなされていたからである。各地に散らばった本土の日系人はその調査が遅れていたため、短期間で解決する為に泥縄式に「忠誠登録」を行った為の悲劇である。

こうして勢揃いした442連隊は、本土出身者とハワイ出身者との確執を孕んだまま、訓練に邁進して行くのであるが、本土出身者はハワイアンを「ブッダヘッド(Buddha Head)」と呼び、ハワイアンは本土兵を「コトンク(Kotonk)」と呼んだ。「ブッダヘッド」は仏の頭=日本的頑固者の意に、豚の意味も含まれるらしい。「コトンク」は、本土兵の頭をこずく音を空の椰子の実の落ちる音に例えているらしい。つまり両方とも相手を馬鹿にした呼び名なのであるが、いつしか両陣営の兵士ともこれを自称するまでに一般的になってしまう。 一方で「ブッダヘッド」は白人が日系人を総称して呼ぶ時の、「Jap」や「Nips」と同じく蔑称であったとする説もあるが、この物語では便宜的に区別して使うこととしたい。
ハワイ出身者は米国人でありながら敵性国民とされた事に対して名誉回復のため、本土出身者は強制収容所に入れられた家族の解放と名誉回復のため、と動機は異なれど第442歩兵連隊の日系二世兵士は兄貴分の第100大隊の兵士に劣らず猛訓練に邁進し、元々の戦意の高さから瞬く間に精鋭部隊の評価を得て行く。心配された「ブッダヘッド」と「コトンク」の確執は訓練が進むうちに氷解していったとも伝えられるが、個人差はあれ必ずしもそうではなかったようである。ドウス昌代著「ブリエアの解放者たち」によると、インタビューを試みた本土出身の復員兵(コトンク)のうち、多くがキャンプ・シェルビーでの経験を語りたがらなかったということから、その意外な根の深さを思い量ることが出来る。

第100大隊の兵士達は彼ら自身の役割を深く理解して、地元でのトラブルを殆ど起こさなかったのに比べ、第442連隊の兵士達は意外にキャンプ地の地元での悶着を起こしている。 第100大隊が殆ど開戦時の現役兵で編成されているのに対し、第442連隊は大学生などの志願兵である。若くて当然血の気も多い。人種差別が公然と行われた当為の南部にあるキャンプ地において、地元警察の世話になる事件を何度も起こしているが、起こすのは殆どがハワイアン・ボーイであったことから、兄貴分の第100大隊の兵士はそれを憂慮し、「コトンク」との争い、地元での乱行などを厳しく嗜めていたが、若気の至りか、志願兵としての過剰な自負心か、兄貴分第100大隊への対抗心か、なかなか手に負えなかったという。

戦時中の米国では兵営がある地域では、地元の各種団体が休暇日の度に慰問の為のダンスパーティーを開き、兵士達を招待することが盛んに行われた(1988年映画「ブルースが聞こえる」(Biloxi Blues)に当時の雰囲気がよく表現されている)。 しかし、人種偏見の強いミシシッピーの土地柄では日系兵士向けの地元主催の慰問ダンス・パーティーは開かれていない。それを気の毒がったキャンプ・シェルビーに最も近いアーカンソー州のジェローム収容所の日系人婦人達はダンス・パーティーを開いて兵士達を招待している。 逆にハワイアン達は、初めて強制収容所の過酷な実情を目の当たりにし、複雑な思いを抱いて帰隊しているのだ。

余談であるが、当時の米陸軍は入隊時に全兵士にIQ(知能指数)テストを行っている。今でもそうした制度があるかどうか判らないが、おそらく、戦時下においては徴兵した兵士の知能指数を調査して、将校、下士官の資質保有者をあらかじめ確認していたものと思われる。 洋の東西を問わず、戦時中は戦闘の中心となり、死傷率の高い下級将校と下士官(日本でも欧米でも消耗品と言われる所以)の養成は急務であり、連合軍側も枢軸国側も戦争の後半では、現実にその補充に難儀している。
それで、意外に知られていない事だが、ハワイの日系現役兵士で編成された第100大隊の平均IQ指数103は米陸軍全部隊中の最高点であった。 当時の米陸軍の基準ではIQが110以上の者は将校資質保持者とされたので、平均103というのは、実は驚くべき数値なのである。第100大隊の兵士の約半数が高校卒業者で、そのうち12%が大学在学中、5%が大卒であったのであるからそれも当然かもしれない。 前に述べたように、日系二世部隊の創設当時の将校は殆どが白人であり、ハワイ人独特のピジン・イングリッシュを話す彼らを軽く見て、南の島の田舎者程度に捉えていたようであるが、二世兵士が故郷に送る郵便物全ての開封検閲を行っていた陸軍省は、彼ら日系兵士の書いた英文の語彙・文法ともに並の米国人の水準を超えるほどの立派なものであることに気付き驚愕したのである。当時日系一世には英語が喋れない人が多かったし、親の意思で日本で教育を受けさせられた二世(いわゆる帰米二世)は英語を苦手としたが、多くの二世は米国人としての基礎教育を平均以上の水準で受けていたのである。 今もホノルル市のダウンタウンに在るマッキンレー高校は、当時から日系人子弟が生徒の大半を占めていたことで、「トウキョー高校」と呼ばれた二世部隊の母校である。 これも教育熱心な日本人の親に育てられた日系二世と二世部隊の忘れてはならないエピソードであろうと思うのである。この物語の第二章で、同じ時期にハワイ、米国に移住した各国からの移民の民族性の違いをお話したが、砂糖きび畑での過酷な労働で得た「種銭」を子弟の教育に投資した日系移民労働者の思いは、計らずも不幸な戦争という局面で一種の結実を見ているという点で非常に興味深く、また戦後のハワイ州における日系人の進出と活躍を暗示させる話でもある。

さて、第442歩兵連隊の志願兵達も勢揃いし、厳しい訓練に耐え、出動可能な状態となっても二世部隊への出動命令は下らない。通常この時期、米陸軍の徴兵による新兵で組成された部隊は2〜3ヶ月の基礎訓練で戦地に送られている。 それだけ戦況は逼迫していたということであるが、二世部隊は来る日も来る日も訓練に明け暮れた。
1943年も夏になって、漸く二世部隊を戦地に送る機運が高まってきた。陸軍省や政界には早くから彼らを戦地に投入すべしとする意見と、依然として彼らの合衆国への忠誠心を疑う意見が並存していた。最も強硬な反対者は米本土西海岸防衛の最高責任者であり、排日派の頭目であったデヴィット海軍中将であったが、先も述べたように、陸軍参謀総長ジョージ・C・マーシャル大将(後の国務長官)は海軍のニミッツ提督と並び、日系人の扱いに非常に同情的であり、このマーシャル参謀総長の意向が決定的な要因となって、陸軍省内の意見は一気に二世部隊参戦に傾いた。 実は、第100大隊の出征に際して、マーシャル参謀総長は、太平洋戦線のマッカーサー将軍に日系二世部隊を送ろうかと打診している。マッカーサーの返事は「NO THANK YOU」であった。

8月になって第100大隊はニューヨークに移動し、1943年8月20日第100大隊約1400名を満載した貨客船James Parker号はニューヨーク港を出航した。実に前年の6月5日にホノルル港から誰にも知られずアロハ・タワーに別れを告げて以来、1年2ヶ月に及ぶ長い国内待機であった。 むろん、この時点では、兵士達は行き先を知らされておらず、殆どの兵士は太平洋戦線に送られる事を覚悟していたという。 第100大隊の日系二世兵士達はどんな思いで自由の女神と生まれ育った祖国に別れを告げたのか。 また、この時の兵士達の殆どが戦後の凱旋帰国船で同じニューヨーク港に帰国することが出来ないことを、誰が想像できたであろうか。  
(この章終り)

(2000年4月21日)
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